第5話 五月、我が家の庭

~2018.05.07(月)~

   例年に比べて連休期間が長かったゴールデンウィークは、久しぶりに自宅でのんびりと過すことが出来た。五月初旬のある朝、ふと、寝室の窓から庭先を覗くと赤いボタンが朝日を浴びて咲いているのが目に留まった。何時の間に咲いたのであろうか・・・ひとつ・・ふたつと数えると十二の大輪がそよそよと涼しげに揺れている。長閑な風景に誘われ庭に出て見ると、そのひとつが朝の挨拶でも交わすようにさり気無く美麗な容姿を私に傾けた。赤子の掌によく似ている小さな葉の上に丸い朝露が光っている・・“なるほど・・今朝、咲いたばかりだね!”と思わず声を掛けると清々しい風が通り過ぎて行った。花々が一斉に私の方に向き直り、挙って「朝の歌」でも口ずさむように優雅にゆらゆらと細い首を揺すぶった。・・花たちは言葉こそ口にしないが、色鮮やかに染まった花びら、可愛い蕾や青々と茂る葉、しなやかな枝、逞しい茎などを通じて様々な表情を持ち、人間のように手振りや身振りで自分の意志を私たちに伝えて来るものだ・・と母から聞いたことがあった。母の言う通り、このボタンも私と会話が出来ると、この年齢になってはじめて知る思いがした。母の手で大切に育てられたこの花は、失った“主人”から授かった愛情を今も忘れず持ち続け、私たち家族に優しく話し掛けて来る。五月、我が家の庭には懐かしい思い出がたくさん埋まっていることを改めて思った。
 生前、母は “清水町の庭”〈本人が名付けた〉で長い年月を費やしこのボタンとツツジだけは特別に手を掛けて育てた。庭は自宅〈東雲町1丁目〉から三丁ほど離れた清水町1丁目の千歳川の川沿いにこんもりと茂り、雨の日も風の日も自宅から自転車で通い続ける熱心な世話好きの主人をいつも待っていた。五月になると、この主人の愛情に報いるように、桜、藤、アジサイ、アヤメ、菖蒲、シャクナゲ、そしてボタンとツツジが一斉に咲き誇り、通行人をアッと言わせる色とりどりの見事な光景を繰り広げた。母は多くの知人から苗木を貰い受けるままに所構わず植え続け、何時の間にか庭一杯に溢れ終には本人ばかりか植木屋までも手に負えなくなってしまった。それでも懸命な世話を怠らず、道端で馴染みの知人に出会うと頂いた植木の自慢を挨拶代わりに交わし、また、知人も母の自慢話が聞きたくて度々我が家を訪れた。従って、主人を慕うように集まった草花には、ひとつ、ひとつそれぞれにひとつの物語を秘め、それも母の自慢話のひとつであった。
 本格的に庭作りをはじめたのは父が亡くなった〈昭和二十九年六月没、享年三十九〉年の秋からである。父は戦地で腎臓結核に取り付かれ無事に復員したが、自宅療養を余儀なくされた。時々、私を連れて川辺リで魚釣りや散歩するなどで時間を過して気を紛らわせていたが、肝心の母は店が忙しくて思うように看病が出来なかった。いつも歯痒く思っていたに違いなく、例えば、西瓜は離尿作用があり腎臓病によく効くと隣人から聞いた母は、初夏を待って町中の果物屋から西瓜を買占めた。隣人から“千歳から縞模様の果実が消えた”と冗談を言われるほど父の病状には目を離さず過敏で深刻だった。父が亡くなって間もなく、私は物置小屋から山のように積まれた西瓜を発見し母の深い悲しみをはじめて知った。父の死は母の期待を裏切り、その夏を越すことが出来なかった。普段の母は気丈夫な働き者で周囲に弱味を見せたことがないが、この時ばかりはやつれ顔で途方に暮れ、失意のどん底に追い込まれていたであろう。忘れられた西瓜は戸惑い苦悩しながら仕事を続ける母の心境を物語っていた。西瓜の季節か終わり秋を迎えた時、それまで畑を耕し野菜作りを楽しんでいた母が、突然「花を植えたい」と言い出した。決して他言しない母の辛い胸中を知る私は、やり場のない“淋しさ”を西瓜の代わりに今度は花で埋めようとしていると受け止めた。以前から畑に隣接する手ごろな空き地があったが、既に地主が住宅を立てる予定で準備が進められていた。その土地を母は無理を承知で地主と強引に掛け合い、高価な値で買い求めた。自分の手で庭土と肥料を入れ終わると私を前に「父さんが好きな花だ」と呟き庭の入り口近くにボタンとツツジを植えた。父の看護では西瓜集めに奔走、死後は故人が好んだ花を育て続けることで自分を振るい立たせた母の強く逞しい姿はいつまでも忘れることはなかった。以来、四季折々に咲く草花を仏壇に捧げお経を読む母の姿をしばしば見ることがあったが、唯一、安らぎのひと時であったのかも知れない。
 朝鮮動乱〈昭和二十五年〉を契機に、苫小牧から千歳に移り同年から昭和三十五年までの約十年間、錦町や清水町界隈で飲食店を営んで来た母にとって、同じ町内にあるこの庭には格別に“深い思い入れ”があったに違いない。父への供養や鎮魂はもちろんだが、私に対する“愛情の証”もそのひとつであった。当時、複雑な事情を知らない幼い私は、病弱な父を余所に、憎憎しい米兵を相手にお店に没頭する母を恨み、何かに付けて辛く当って反抗した。
 入学したばかりの小学校では平気で嘘を付いて遅刻、早退、ずる休みは評判の常習犯、道草と喧嘩は得意中の得意、お陰で母やお手伝いの幸ちゃんは担任の先生に呼ばれ厳しく注意を受けることも珍しくなかった。反省するどころか、乱暴者の“札付き”と呼ばれるようになり、家人や周囲からの忠告に背き、母には頑なに憎悪を抱いた。私の胸中を知る母は、何か小言や願いごとがあると幸ちゃんを通じて伝えて来たが、その度に“別な用事がある”と嘘でごまかし、草むしりや水遣り、施肥や虫避けなどの農作業は大嫌いだった。ある日曜日のこと、直接母から「一緒に畑を手伝って」と声を掛けられた。私は“今日こそ!”日頃の不満をぶちまけようと「肥やし臭い汚い仕事は米兵にやらせればいい」と面と向かい母を侮辱するようにののしった。すると、驚いたことに母は涼しい顔で「きっと、そのうちに米兵も畑も好きになるさ」と穏やかな口調で呟き「何たって・・私の大切な息子だものね」と珍しく怒鳴ることもなく苦笑を残しその場を繕い立ち去った。不思議なことに、いつも刺々しい私の胸に何か言い知れぬ温もりが輪のように幾重にも広がって行くのを憶えた。もしかすると、我が庭のボタンは今でもこの時の“温もり”と“苦笑”を憶えているかも知れない。
 もうひとつ、母は決して米兵相手の飲食店のすべてを肯定してはいなかったのであろう・・商売を長く続けた繁華街の片隅に自分の手で美しい花々を咲かせることが出来れば“目の保養”になると、迷惑を掛けた隣人への“お詫び”を含めた“お礼”の気持ちが込められていた気もする。ある日のこと、頬被りした母が粗末な野良着を纏いこの庭で地面を這って草取りをしていると、見知らぬ人から「綺麗なボタンとツツジですね、どなたの庭ですか?」と尋ねられた。すると、母は平気な顔で「私は植木屋に雇われた者ですのでよく存じません」と見事に白を切る姿を見せたことがある。遠くに去った通行人を見送りながら、とぼけ顔で「トシさん・・気持ちがいいね・・」と微笑んだ、その爽やかな母の笑顔が余りにも印象的、いつも機転の利いた相手とのやりとり、悪戯っぽくお茶目な笑みが何とも言えず満足そうで幸せそうに見え、母の本望はこの庭の花々にあることを私なりに理解することが出来た。亡くなる少し前、私を枕元に呼び「あの庭は私一代限り、直ぐに処分し相続の費用に当てて欲しい」と言い遺した。この時も、あの時と同じように満ち足りた幸せそうな笑顔を浮かべた。死期を迎えた母が生涯を通じて愛情を注いだこの庭の“行く末”について、約四十五年間に渡る千歳での暮らしのすべてを知る息子に“波乱万丈の生涯を静かに精算させるつもりだ”と悟った私は無言で頷き、込み上げる熱いものを押さえながら旅立つ人の手を固く握り返した。亡くなって間もなく(平成七年十月没、享年八十五)、この遺言に従い庭を売却した。だが、母を偲びせめて赤いボタンとツツジだけは手元に残こそうと思い、猫の舌ほどの狭い我が庭に植え“我慢して下さい”と言い置いた。その後、ツツジは昨年の春に枯れてしまったがボタンは無事に生き延びている。

 毎年五月になると赤いボタンは母と約束を交わした如く大輪の華麗な花を咲かせる。その姿はまるで母から“伝言”を預かったと言わんばかりに凛として清清しい。私の時計は毎日一秒一秒止まることなく刻み続けているが、母との思い出は止ったままである・・。七年前の五月、このボタンを眺めているうちに、ふと“赤一色だけでは寂しかろう”・・と思い立ち、傍に白いボタンの苗木を植えた。小枝を眺めながら、・・少年時代はあれだけ嫌った庭の手入れだが、今では草花を愛でる年齢になった・・これも母の言う通り、やはり、私は母の息子でよかった・・とつくづく思った。白いボタンの苗木は細くて弱々しく見えたが、二年ほど経ると枝々は逞しく広がり、ふたつ、みっつと小さな花が咲いた。息子がはじめて植えて育てた花が無事に咲いたのだから、天国の母はさぞかし喜ぶであろうと思うと気が晴れ晴れした。今年は赤よりも一週間ほど遅れたが、太く育った枝に七つの白い大輪を付けた。赤に比べるとまだまだ背丈は小さいが、枝々を左右に張り巡らし健気に成長を続けている。このまま育てば、いずれ赤と同じ数の大輪を咲かせるであろう。両者が会話を交わす光景を目に出来るのも決して夢ではない。「赤と白よ、共に頑張れ!」〈終〉

第4話 春の足音

~2018.04.10(火)~

 先日、我が家でクンシランが咲いた。
 亡き母(平成七年没、享年八十五)が大切に育て遺して逝った鉢植えである。この 花々が主人を無くして間もない頃、心なしか青々とした茎や葉が色褪せ、萎れかけたので“早く元気になれ”と檄を飛ばし、一度だけ大きな鉢に植え替えたことがある。以来、葉も茎も根も土も元のまま残し、場所も以前と同じ仏壇部屋の日が当る窓際に置いてある。立派に育った四つの鉢が母や先祖の遺影を見守るかのようにズラリと並び、今年は三つの鉢が見事に芽を膨らませ花を咲かせた。天国で無事に暮らす母から“鶴の一声”により、挙って咲いた気がしない訳でもないが、萌黄色の蕾や橙色の花弁を見ていると彼の地から“元気に暮らせよ”と励まされているような気がしてならない。生前の母は将にこのクンシランの如く凛として誇り高く、晩年は意気揚々と日々を送った。
 母は庭の手入れや畑仕事が大好きだった。“春分の日”には物置小屋から自転車を取り出し脇目も振らずに長年世話を続ける自慢の畑と庭へ駆け付けた。未だ雪が残る寒い朝でも泥んこ道でも何のその、悴んだ手でハンドルを握り颯爽とペダルを踏む姿は町内でも話題になり“働き者のオツさん”と言われたぐらいである。この日を境に、朝は暗いうちから梅干の握り飯を作り、昼間は涼しい草むらで昼寝を楽しみ、休息は桜の木の陰に腰掛けながらとっぷりと陽が暮れるまで畑仕事に没頭した。
 時々、私と家内が心配して迎えに行くと、何食わぬ顔で「明日の朝も早いぞ!」と呟き、入れ歯をカタカタ鳴らし小さな身体をひょいと自転車のサドルに乗せた。家路を急ぐぞ!と言わんばかりに、如何にも強気な姿勢を見せ付け右足でペダルを踏み込む、その頑固で一途な後姿を眺めながら先を越された私達夫婦は唖然とするばかり、とても敵うものではなかった。
 昭和二十四年晩秋、苫小牧に住む母〈四十歳の頃〉は千歳在住の知人から受け取った手紙の中で、近いうちに大勢の米兵が駐留することを知ると僅かな蓄財を投じて千歳に移り、いち早く米兵相手の飲食店経営に乗り出すという豪腕の持ち主だった。翌年夏、朝鮮動乱が勃発し千歳は米軍基地に豹変、母が予想した以上にお店〈愛称ミッキー〉が繁盛したお陰で土地を買い求め畑を耕すことが出来た。雨の日も風の日も、まるで何かにとりつかれたみたいに通い続けたこの畑には余程の愛着があったのだろう、苦労を重ねた母の孤独な生き様と明治生まれの心意気を伝えている。「働きさえすればどんな道でも開ける」の言葉が母の言い癖であった。
 最初、母が知人からこの土地を紹介された時に幼い私も一緒だった記憶があるが、この時の悲しい経緯はいつまでも忘れることは出来ない。当時、お店をはじめたばかりの我が家は大きな木造の二階建て、一階は家族と女性達が寝食を共にする住居、二階はビヤホールといった具合で同じ建物であった。大勢の若い女性達と一緒に暮らし夜も昼も騒々しく、深夜になっても酔って怒鳴り狂う米兵の声が後を絶たず、しかも、重い病気の父が床に伏していたので私は言葉では言い尽くせぬ怒りと不満を抱いていた。
 そこへ、目の前に広がるこの空地を見た母が「トシさん、この土地を何に使おうか?」と尋ねて来たので、私はこの時とばかりに「静かに勉強できる家が欲しい!」「父が気の毒だ!」「米兵も学校も大嫌いだ!」「友達も要らない!早く苫小牧へ帰りたい」など、言いたい放題ぶちまけた。執拗に迫る私の言い分に母は何ら口を挟まず、黙って川淵を見詰めていたが、やがて正面に立ち「それは・・もっと貯金を増やさないと出来ないことだね」と険しい顔つきで答えた。
 私の願いは敢え無く砕かれ暗い孤独の闇へと突き落されてしまった。必死の“願い”を受け入れてくれない母が憎く、余りに父が気の毒であった。そればかりか、友達が出来ない自分までもが惨めに思えて来て、これもそれもすべての原因は米兵だ!と決め込んだ。“何時の日か、きっと仕返しする”と心に誓い、私は半ばやけくそになり急斜面の川淵へ降りると石を拾い清流に向かって思い切り放り投げた。ポチャンという音と共に私の願いも空しく川底に沈んで消え、母を憎むはじまりとなった。
 今、この記憶を辿ると、私の言い過ぎた“申し立て”は母の心を深く傷付けたのかも知れなかった。私の辛い気持ちを察した上で、息子の願いを叶えたくとも叶えられない母親が自分自身を責めたのではあるまいか・・と疑いたくなるような母の悲しい表情を思い出すからだ。この時、土手の上から「一緒に・・」という母の声が確かに聞えて来たのである。一瞬「一緒に・・苫小牧へ帰ろう」と願いが通じたと思った。だが、肝心の声が途中で川を渡る風に消されて仕舞い、母の真意は定かではないので慌てて土手をよじ登り母に問い直した。すると「せめて・・一緒に野菜を作る畑で我慢して・・」と詫びるような口調と共に母は両手で私の肩を強く握った。再び期待を裏切られた私はその両手を払い除けようとした。ところが、驚いたことに母の指先は固い皮膚で覆われ掌はガサガサに荒れ無言の悲鳴を上げていた。途端に私の脳裏に夜も昼も汗だくで働く母の姿が浮び、これ以上惨めな母を責める勇気など起きるはずもなく、その場で黙り込むばかりであった。その後、時は流れ過ぎたが、この畑が他人の手に渡ることもなく、新しい家屋が建つこともなかった。それは、私への謝意を込めた母の意地であったのかも知れない。母は沈黙を守り続け畑仕事に従事した。
 土地は住宅街の一角にあったので水道を引くことは簡単だった。だが、地質が火山灰であるので大型トラックで数台分もの黒土を加えねばならず、また、千歳川に面している故に風当りが強く、二~三年を費やし周囲にカラ松を植えて防風林を備えなければならなかった。漸く周囲の整備が終わると次は風雨を凌ぎ、苗や農産物、農機具などを保管する物置小屋が必要になり、それ等をこつこつと母が自らの手で建てると共に屋根のペンキ塗りや改修する大工仕事なども他人の手を借りることはなかった。お店を続けながらこうして男性でも顔負けの作業を平気でこなす行動力は周囲の誰にも負けず、私の眼には優しい母親のイメージからは遥かに遠く、父親よりも逞しく、何者も越え難い高みの存在に映っていた。
 毎年、秋が来ると町内の畳屋から古くて再生出来ない畳を譲り受け、細かく解した藁を小屋の陰に山のように積んで冬支度を始める。霜がふる頃を見計らいその藁を畑の隅々に敷き締めると積もる雪の中で発酵し、春になると立派な堆肥が出来上がった。あるいは、日頃から行き付けの八百屋や魚屋にお願いして生ゴミを貰い、所々に掘った小さな穴に大根の葉や白菜の切れ端、魚の腸や骨などを埋め「生ゴミは宝!」と言って“土作り”に励み、日常の水遣りや草採りなどは一日たりとも欠かしたことはなく、自宅から徒歩15分程の距離を普段は自転車で通い、苗や収穫物などを運ぶ時には苫小牧の家から持って来た荷車を利用した。収穫期になると我が家の軒下に大根や白菜、胡瓜やトマトなどの作物を沢山並べることが自慢であり、近隣の人々に「いつもお世話になります」とお礼を添えて渡した。
 飲食店を廃業(昭和三十五年)した後、母は再び手腕を発揮して自衛官相手の借家業に転じたが、この間、如何に忙しくとも農作業だけは休まず、晩年は裏玄関の横にある小さな空き地に温室を備え、部屋の窓際にも棚を拵えて植木鉢を並べ、サボテンや観葉植物など様々な植物を育て、クンシランもその中のひとつであった。
 先日、春分の日を迎え仏壇に花を供えて母を偲び、久しぶりに我が家から畑に向かう土手道を歩いた。千歳市役所を左に折れ、正面に教会が見える橋を渡って千歳川の辺りに敷かれた遊歩道を行くと、やがて畑の跡が見えて来た。深い川淵は灌漑工事で整備され、土手は舗装された近代的な遊歩道に変わっている。昔はススキの茂みに隠れた細い道が川辺を廻る殺風景な場所であった。この土手を1キロメートルほど下流に向かって歩くと鉄橋が待ち受けている。千歳駅から発した線路がこの厳つい橋を渡ると一直線に苫小牧へと延び、恋しい叔母に会える鍵を握る唯一“希望の目印”であった。そして、もう一度、私達家族が“時間”と“場所”を苫小牧に戻す事が出来る魔法の扉、少なくとも幼い私はそう信じて疑わなかった。
 小学校に入学した頃、街中は米兵の争いごとが絶えなく、新しい生活に馴染めない私は苫小牧に帰りたい・・別れて来た叔母に会いたい・・との一心から、ある“秘密”を実行しようとその機会を狙っていた。“企て”は、苫小牧駅で叔母と別れはじめて千歳駅に着く直前に車窓から見えた鉄橋で思い付いた。“この橋を渡れば一人でも迷わず苫小牧へ行ける”、その為には街中から千歳駅に通じる道を探すのが先決、駅から線路に沿ってこの足で歩けば必ずや鉄橋に辿り着き、この川を渡れば苫小牧へは一直線で行ける・・という想像が私を虜にした。新しい家に落ち着くと、直ちに見知らぬ街中を彷徨いながら千歳駅に至る道筋を探しはじめた。繁華街や商店街を避ける裏通り、人目の付かぬ細い道、次は目印になる酒屋や果物屋、レコード店や映画館、十字路など、ひとつひとつ丁寧に確かめてはノートに地図を記し頭の中に刻み、実行する日をじっと待っていた。
 ある日のこと、“新橋”(清水町)近くの川岸で釣りをしていると、ススキの隙間から細い道が見え隠れしながら土手を廻り、くねくねと川下へと続く景色に出会った。すっぽりと草むらに隠れ人目に付かない格好の逃げ道、しかも川沿いを下る様子から鉄橋に続いているはずだと直感、早速、その足で土手道を行くと予想した通り遥か遠くにあの鉄橋が見えて、思わず「アッツ」と叫んだ。最早迷うことはなかった、胸がすっきり覚悟は決まった。
翌朝、母には学校へ行くと見せて千歳橋を渡ると直ぐに橋下を潜り抜け、そのまま新橋まで引き返した。幸いなことに二~三人の釣り人以外に人影に出会うことはなく、そっとススキの茂みに紛れて土手道に立った。川下から冷たい風が襲って来たが、負けずに遥か遠くの鉄橋を目指し、汗にまみれ運動靴が磨り減るぐらい必死に歩き続けた。ところが、漸く辿り着くとそこにはお手伝いの幸ちゃんが待ち受けていた。ショックが電流の如く全身に走り、その場で幸ちゃんを睨み付けたまま呆然と立ち尽くした。

 秘密の計画が簡単に見破られた悔しさで胸が一杯、私は泣く泣く家に連れ戻されるといった憂き目に出会ったのである。
 帰り道、居たたまれない気持ちをぶつけようと、どうして私の計画に気が付いたのか?幸ちゃんに尋ねた。彼女は日頃から私の世話で手を焼き母に叱られてばかり居たので、なかなか打ち明けてはくれなかった。そこで、「明日からの登校は拒否しない」「放課後は道草しない」「米兵と喧嘩しない」「母の悪口を言わない」など口から出任せに約束を交わそうと誘導すると、彼女はひとつひとつ頷きながら渋々と話しはじめたのである。幸ちゃんの話によれば、日頃から私を見張り、この日も家を出た時からこっそりと後を付けていた。千歳橋の下を潜り抜けた辺りから鉄橋に向かうと見抜いたので別な道を自転車で先回りし、鉄橋で待ち伏せていたとのことであった。ところが、続けて打ち明けてくれた話によれば「トシさんは必ず千歳川の鉄橋を渡ろうとする」と既に母が予知しており、「その時は幸ちゃんの手で必ず連れ戻してちょうだい」と念を押されたとのこと。母はいつの間にか鉄橋のことを気付いていたのであった。びっくり仰天、即座に「何時、母に頼まれたの?」と聞き正すと、お手伝いに来たその夜だと意外な答えが返って来た。母はずっと以前から私の企みを見抜いていたことになる。“お手伝い”とは母の方便に過ぎず、幸ちゃんの本当の仕事は私の行動を監視することだとはじめて知った。
 大切な秘密が簡単に暴かれた悔しさもよりも、偽りのない胸の裡をずっと以前から母に見抜かれ、同時に“秘密”も悟られていた。何よりもそのことを知らなかった愚かな自分に腹を立て、幸ちゃんに“裏切られた”という恨めしい気持ちをどうしても拭い去ることが出来なかった。母への憎しみは募るばかり、何かに付けて周りに反抗し、隙を捕らえては米兵を相手に喧嘩を売ろうとした。その度に叔母が恋しくなり苫小牧へ帰りたい気持ちに駆られた。次第に登校を拒み、道草を重ねるうちにとうとう“札付き”の少年になってしまった。母はこうした私の気持ちや行動を知りながら何も叱らず、見て見ぬ振りを続ける中でお店の仕事に全力を注いだ。お手伝いの幸ちゃんが母と私の板挟みになり大変な苦労を重ねていたのもこの頃である。この土手に立つと、そうした幼い頃の懐かしい思い出が蘇って来る。
 今は既に防風林は取り除かれ、畑は整地されて幼稚園の公園に隣接する空き地に変わったが、所々に黒い土が見え当時の面影を残している。母が農作業の合間に身体を寄せ一服した桜の木も払われ、その切り株が枯れ草の中から僅かに顔を出し私を迎えてくれた。近づいてよく見ると、周囲には鮮やかな萌黄色を装った蕗の薹が点々と芽吹いている。母は長い冬と厳しい仕事に耐えながらこの燃えるように芽吹く春を待っていたのであろうか。春分の日の朝を待って、私が散々に噛み付いたこの土手に駆け付け、あの日の出来事を思い浮かべては鉄橋が見える風景を眺め独りで春の足音を聞いていた。私よりもずっと孤独な身を畑仕事に没頭することで癒していたのであろうか、私よりもずっと苫小牧に帰りたいと願い、私よりもずっと叔母を愛し続けていた。そして、“すまない”とひと言、私と交わす穏かな日々を待ち望んでいた。黒い土と桜の切り株がその真実を伝え、如何なる逆境でも前向きで“気丈夫”であった母の人生を物語っている。
 毎年、萌黄色の芽を膨らませ橙色の花弁を着けるクンシランも母の心の裡を知っている。その証拠は悲しみも歓びも何処かに秘めたまま、ますます葉を茂らせ根を深く鉢底に張り巡らし逞しく成長する清清しい姿にある。母が私達に注いだ深い愛情そのものである。いつまでも母の面影を追いつつ、私もこの川辺に立ち誰よりも先に春の足音を聞く余生を送りたいと願っている。〈終〉

第3話 雛祭り  

~2018.02.28(水)~

 先日、二年ぶりに家内と一緒に雛人形を飾った。
 昨年はふとした油断から家内が絨毯に躓いて左足首を骨折、約二ヶ月の入院を強いられたので残念ながら“雛祭り”は見送りとなった。三年前のこと、長年続けているリハビリ(在宅)のお陰で元気になった家内がはにかむように「お雛さんを飾りましょうよ」と呟いた。意外な言葉に振り返ると、彼女を照らす窓の屋根に雨垂れが連なりその一粒一粒が春の日差しを浴び眩しく輝いていた。家内もこの光体に目が留まり、今年も“雛祭り”がやって来ると思ったに違いなく、我が家にも漸く春が訪れると思うと胸が熱くなった。約十五年前、脳溢血で倒れてから我が家は厳しい季節が長く続いていたが、日本ハムが優勝した頃にリハビリの先生から“応援に札幌ドームに出掛けてみたらどうですか”と奨められて漸く元気を取り戻した。閉じ篭ってばかりいた家内が思い切って行動に出たことが“自信”を付ける足がかりとなった。以来、私たちは度々札幌ドームに出掛けるようになり、本人が自らパソコンで駐車場と入場券を手配すると隣人や息子たちを誘ってくれる。近年では念願の沖縄キャンプの視察も実現、度々訪ねる“栗山ファーム”(自宅)では偶然に栗山監督と顔を合わせることもあった。今年は“アリゾナキャンプ見学”を検討したが、視察ツアーの窓口に問い合わせたところ付き添い人が二人も必要とのことで断念せざるを得なかった。しかし、ここは持ち前の粘り強さを発揮して“来年こそ実現しよう!”と言っている。
 余談になるが、家内の幼い頃は休日になると決まって父親に連れられ円山球場で高校野球を観戦するのが日課となり野球が大好きになったと聞いたことがある。その思い出話をリハビリの先生と交わすうちに“札幌ドーム観戦”がリハビリの新しいメニューに組み込まれたのだろう、後日、先生も日ハムの大ファンだと聞きますます心強く思った。予想通り、その後のリハビリは楽しい“日ハム戦”が話題の中心、お陰でどんな厳しいストレッチにも耐えられるようになり、日々見違えるほどの回復ぶりに周囲は驚かされた。

 そして、もうひとつ、家内に元気を与えてくれたのがこの雛人形たちである。彼女が嫁ぐ日に実家から持参したのだが、あいにく結婚当時の私は東京勤務だったので家財道具はすべて私の実家、即ち母の家に預けたままになってしまった。従って、私が雛人形のことを知ったのは、約三年間の東京勤務を終えて私達夫婦が母と同居した時だった。ある日、納戸に仕舞ってある古びた箱に目が留まったので家内に尋ねると「記憶は曖昧だけれど私が生まれた年か・・その翌年、父が買ってくれた雛人形よ・・」としみじみと答え遠くに思いを馳せていた。家内は昭和二十一年一月生まれだから敗戦直後の混乱期である、その上に父親が公務員であることも考えると雛人形を買えるほどの余裕など家には無かったはず故に「貧しい中でよく揃えてくれたね」と再び尋ねると、「一人娘だから、きっと無理したのよ」と微笑んだ。
 しかし・・当時は物騒な世の中だから普通のお店で売っているはずがない・・父親はいったい何処で誰から如何にして手に入れたのだろうか・・そして、この雛たちはどの様な運命を辿ったのだろうか・・等々、私の脳裏に過ぎったものは雛人形の生まれた時代や関わった人々など様々な「時代の光と影」であった。ぼんやりしている私に渇を入れようと家内が「雛祭りが来る度に小さい頃からずっと飾っていたのよ・・結婚するまではね!」と皮肉るように念を押して苦笑した。
 彼女の話によれば馴染めない母(姑)への遠慮が先立ち雛人形を飾ることを諦めたとのこと、そう言えば、母が亡くなって(平成七年)以降に幾度か雛人形を飾った光景を憶えている。家内は自分の“生い立ち”よりも嫁として姑に仕えることを第一義と心に決め、一日でも早く“萱場家の仕来り”を身に付けようと苦労に苦労を重ね息子たちを立派に育て上げたのである。事実、私は会社の仕事に追われるばかりで手広く事業を営む母にとってはまったく頼りにならない後継者、代わって家内が懸命の努力で家業を引き継ぎ、終いには娘の如く姑の世話を続け、とうとう最期まで看取った。とは言え、彼女にとって雛人形は両親から授かった大切な形見であることに代わりはなく、無二とも言うべき“お守り”を久方に我家で飾りたい!と言い出したからにはそれなりに心の整理があったはず・・しかも、私がはじめて手伝うのだから神妙な“雛祭り”になるもの当然であった。この時、家内が“萱場の人”に成り切ったと確信し一瞬の姿を見たような気がしたと同時に、母の晩年の風格によく似て来たと思えてならなかった。

 二月初旬、恐る恐る雛の眠る部屋へと向い、狭い階段を上り奥の襖を開けると納戸が待っていた。久しく仕舞い込んだままになった大きなダンボールを取り出すと、木箱の中から丁寧に畳まれた木製の雛壇と赤い毛氈が出て来た。三段構えの雛壇をテーブルの上で組み立てると、続いて古い新聞紙に包まれた小箱が三つ四つ、そのひとつを開けると柔らかな藁と白い布に包まれた内裏様と三人官女が静かに眠っていた。布をそっと取り除くと高貴な男雛と優美な女雛が長い眠りから覚めたと言わばかりに奥ゆかしい微笑みを投げ掛けて来た。私は何か別世界へ旅立つ扉を開いている錯覚に囚われていた。続いて弓矢を携えた二人の武者が勇ましい姿を見せると雛壇に全員が勢揃い、どの雛たちも凛々しい表情で静かに納まった。後段に重厚な牛車を備える、雛たちの周りには“菱餅”や“あられ”を添える器や膳を運ぶ懸盤が並ぶ、いずれも職人の手を尽くした華麗な絵柄の塗り物、それぞれの豪華絢爛たる有様はさながらに平安朝を垣間見る思いがする。そして、最後に、赤や黄、青色などのクレヨンで描いた可愛い雛人形が箱の陰からひょっこりと顔を出した。番外編とでも言うべきこの人形たちは、“雛祭り”が迫ったある日こと、幼い三人の息子たちが仲良く集まり、意のままに描いた雛たちを画用紙から切り抜いた人形、たぶん、母親が雛壇を飾りながらこの兄弟たちに雛を写生するようにと奨めたのであろう・・母子の健気な姿が目に浮んで来た。久しぶりに我家に“雛祭り”が戻り、一瞬、家内の目に光るものが過ぎった。
雛たちの顔立ちは、男雛も女雛も、そして三人官女も白い肌に瓜実顔、つんと清ました鉤鼻と切れ長の目、薄く紅を指したおちょぼ口などは歌麿が描く美人画に登場する艶やかな女性によく似ているが、自由奔放で官能的な容姿を有する現代の人形とは一線を画しているようにも思える。戦時中は激しく降り掛かる矢玉を潜り抜け眉間に傷ひとつ負うこともなく、敗戦後の騒乱期には泥に塗れることもなく、弓矢や調度品など、ひとつとして失うこともなく・・粛々と雛たちを守り通した“主人”とはいったいどんな人物であったろうか、複雑な思いに駆られて雛壇を眺めていた。
 雛たちは何も語ることはないが、その気高き姿から察するにさぞかし由緒正しき家に生まれたであろうに・・その家も焼かれ、激しい戦火を潜り抜けながら如何にして安堵の場所を見つけたのか・・主人と同様にこの雛たちも悲惨な運命を辿ったに違いなかった。にもかかわらず“喜怒哀楽”を深い心の裡に秘め、何者にも媚びず、何事にも屈することのない逞しき“誇り”を鼓舞している。昭和を生き抜いた我々もまた生まれ育った故郷を離れ、あるいは家族とも別れ、幾多の艱難辛苦を乗り越えて来た。すべての悲しみを心の奥に封じ込め、与えられた運命に順ずる日本人の伝統的美意識を秘めたこの雛たちは“昭和”という時代を象徴しているようにも思える。

 人形を飾る風習は、古来正月七日(人日、七草)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)九月九日(重陽)などの五節句や、その年の新穀を祝う八朔(陰暦八月一日、田実)などに共通しているが、いずれも子供の健やかな成長を祈る日本人の素朴な心情に端を発している。「源氏物語」では子供が遊ぶ人形を「ひうな」と称することからその起源はおそらく平安期であろう。寛永三年(一六二六年)に三代将軍徳川家光が上洛した際、宮中に献上した黄金白銀を雛遊の料金に当てられたという記録が残っており、雛壇を設け賑々しく飾るようになったのは江戸時代初期と推測される。更に庶民が経済力を握る江戸中期から明治期に掛けては現代と同じく七~八段という豪華な飾り棚も登場した。五年前、知人が岡山県高梁を案内してくれた折、城下の外れにある商店街で出会った優雅な“雛壇”は、正しく江戸・明治時代の遺産として荘厳としか言いようのない眩い光景であった。ずらりと並ぶ老舗の店先、一軒一軒がご先祖様から受け継いだ雛人形と雛壇を華やかに飾り祝うこの風習は、将に現代人が失った原風景とも言うべきものであった。貴族~武士~町人と言う新しい時代の担い手たちが雛を愛でる家訓を累代に伝えたこの史実を観ると、中世から近世、近代に至る歴史の連鎖が具体的に読み取れる“現場”は、正しく「地方の文化」にあった。

 過日、近く元号が変わると聞いて“昭和”がますます遠くなる心境に襲われた。母は明治、父は大正、私は昭和(終戦)に生まれ、祖父を含めると戊辰戦争、日清・日露戦争、第一次、第二次世界大戦を潜り抜けた日本の近代化は戦争の歴史でもあった。“平成”が終わるに至っても安全保障や北方領土、慰安婦問題など太平洋戦争の後始末は尽きない。大政奉還より150周年と言うが依然として「薩長史観」から脱却できないままに、この中央集権国家は久しく「地方の時代」と叫びつつ尚も空しい時を棒に振っている。
 この騒然たる中、戦争体験者の“生の声”が、もう直ぐ聞けなくなるという現実に危惧を抱くのは私ばかりではない。新しい元号を迎えると聞いて、心の何処かで誰しもが少なからず“不安”を憶えるとすれば、それは“昭和”と言う「受難の時代」を決して忘れてはならないと願う一心からである。“元号”をもって時代の“行く末”を俯瞰する日本人の心情を問えば、新しい“元号”は“平和”の象徴であらねばならない。この“昭和”の雛たちはその願いを必死になって私たちに訴えているように思えてならないのである。(終)

第2話 鳩笛

~2018.02.01(木)~

 新年早々に知人のN氏が主催する講演会に出席するため上京した。講演会が終わり講師を労う懇親会の席で久しぶりにN氏から歯切れの良い医療・福祉・介護政策論を聞き、相変わらず辛口で意気盛んな論旨にすっかり煽られ、新年の挨拶もそこそこにグラスを重ねるうちに何時の間にか酔いが廻った。出張先で気が緩むのはいつもの悪い癖、翌朝、反省と共に酔いを覚まそうと定宿(ホテル)の近くにあるレストランに立ち寄った。当店は品川駅高輪口の傍にあるが、レストランとは名ばかりで田舎の“食堂”と言ったイメージが強く札幌でもよく見掛ける変哲のない洋食店である。近年、品川駅は東海道新幹線が停まり、羽田空港行きの私鉄京急線が開通したことから構内は旅行客と通勤客で大混雑、駅周辺には高層ビルが立ち並び近代的なオフュス街に急変した。
 にもかかわらず、賑やかな雑踏の中でこのお店だけがひっそりと静まり如何にも時代に取り残された姿を露にしている。うらぶれた様子は、昔、「時代屋の女房」(夏目雅子主演)という映画に登場した主人公(渡瀬恒彦)が営む「骨董品屋」と同じく、馴染めない都会への反発や妙に人懐っこいくせに何処か孤独な佇まいは、私のような田舎者の好奇心を捉えて離さない。殊に、このお店のメニューで朝食セットに添えてあるスクランブルエッグは、香ばしいバターの匂いがぷんぷんして黄身と白身が蕩ける半熟の舌さわりは格別である。絶妙な塩加減が口の中で広がって行く風味は、亡き母が七輪の弱火で蒸かした土鍋の「玉子焼き」によく似ており思わず恋しくなる。然るに私は以前から酔い覚ましの朝食はこの店に限ると決め、“時には古き良き時代に思いを馳せる”とでも言うのか、ささやかなノスタルジアに浸りながら出張先の疲れを癒すことにしている。
 この朝、店先に立つと何とは無しにいつもと違う気配が漂っていた。ドアを開けるとプ~ンと塗料の匂いが鼻を突き、眼の前に新品の白壁と木製の床が広がった。正面には洒落たモネの風景画が飾られパソコンの如き最新型のレジスターが置いてあり、一瞬店を間違えたかな?と疑うほどの豹変ぶり、奥を覗くと観葉植物の向こう側はテラスであろうか・・ガラス窓が燦燦と日差しを浴び如何にも心地よさそうだ。古くとも品格を残した分厚い樫のテーブルや木彫りの花で飾った背凭れの椅子などは何処にも見当たらず、スマートに波打つカウンターが続くばかり、こうした思いがけない光景に言葉を失った。“少しでも留守するとこの有様!・・間髪入れず姿を変えるのが都会の流儀・・”大消費都市の凄まじい激変ぶりを目の当りにしてど肝を抜かれ思わず立ちすくんでしまった。そう言えば、高校を卒業して間もなく私が板橋に住む叔母を頼って上京した折に“これから行く東京は生き馬の目を抜く所だよ!”と心配そうに励ましてくれた母の言葉を思い出した。将に“生き馬の目を抜く”とはこのことだ・・、ところが、その驚きも束の間、直ぐに見覚えのある店員さんが笑顔を作って奥から現われたのである。
 眼と眼が合い少々救われた気持ちになったが、わざと不機嫌な顔を装い「お店・・すっかり変わりましたね」と皮肉を言って仕舞った。すると、「お久しぶりですね・・でも、お好みの朝食は以前と同様に用意出来ますよ」と親切に変わらぬメニューを差し出し、私を労わるようにグラスに並々と冷水を注いでくれた。数ヶ月前にも同じ対応を受けたことを思い出し、いつも二日酔いを見抜かれている上に皮肉や愚痴ばかり言っている愚かな自分が恥ずかしくなった。だが、“なるほど・・建物は変わっても料理と人情は昔のままだ!”と思い直すと沈んだ気分も幾分かは晴れ、ならば、“旅先の恥は掻き捨て!”と一気に冷水を飲み干した。やがて、あのスイートな匂いを放つスクランブルエッグがテーブルの上に登場した。そっとそのひと匙を口に含むと、あの懐かしい風味が全身に染み渡り、今にも割烹着姿の母が「玉子焼き」を持って天国から現われるような錯覚に囚われた。いったい”歳月“とは何だ?と素朴な疑問が湧いて来た・・ひとつは東京のように常に変化に追い詰められ余白の無い”急な流れ“に違いなく、もうひとつはいつまでも変わらぬ人情や料理の味の如き”溜まり場“といったところか・・など様々な思いが脳裏を霞めた。
 今、私はこの両極の狭間で母の「玉子焼き」を愉しんでいる・・苦笑しながら甘美な時間に酔いしれていた。すると、私のテーブルにも暖かい日差しが射し込み次第に酔いが醒めて行くのが解った。ふと、顔を上げて廻りを見渡すと眩しく光るカウンターの奥にさり気無く置かれた小さな玩具に目が留まった。オヤ!近づいてよく見ると見覚えのある東北地方の民芸品である”鳩笛“、手に取るとあの時と同じ重さが伝わって来た。
 あの時と同じように白地の紙粘土で作られたこの細工品は愛らしく私の掌に納まり、白い胸を膨らませ緑と赤の縞模様に染められた柔らかな羽毛に包まれている。赤い飾りを着けた首をすっと持ち上げ、その先で見開いた丸い目が涼しそうに遠くを眺めている。尾羽の先に唇を当てそっと息を吹き込むと丸い嘴からボウーボウーと山鳩の鳴き声が聞えた。無垢で無邪気で御伽噺にでも登場する可憐な姿、それは紛れもなくタイムカプセルから飛び出したあの時の鳩笛、次から次へと在りし日の出来事が蘇って来た。立ちすくんだ私の眼の前に、あの日の少年が現われ生き生きとした声で話し掛けて来たのである。
 幼い頃、私たち家族は苫小牧の家で叔母・叔父夫婦と共に暮らしていた。叔母は母の一番下の妹、叔父は父の無二の弟で奇妙な縁から兄弟、姉妹がそれぞれに結ばれ、戦時中のこと故に急場を凌ごうとひとつ屋根の下で仲良く助け合っていた。実子がない叔父夫婦は代わりに私を可愛がり、幼い私も父母同然の如く慕って甘える日々を送っていた。生まれた時から食が細く、身体もひ弱で性格も内気だったので何かにつけて直ぐ泣く癖があったらしく、泣き出すときまって叔母が宥め役に廻った。泣く子の気を引こうと叔母が左右の掌を丸めて貝殻のように合わせ、その小さな隙間からふうふうと息を吹き込むとボウーボウーという音がした。
 聞き憶えのある音色を耳にした私ははっと我に返り、その場で泣くのを止め急いで叔母の顔を窺がうと、ニッコリと笑顔を返して来た。理由は、ある日、叔父と一緒に遠足に出掛けた折に樽前山の森影から山鳩の声が聞えるので必死に追い駆けた勇ましい冒険の思い出があったからだ。叔母はその一部始終を叔父から聞いていたのであろう・・掌から聞こえる音色は正しく樽前山の麓で聞いた山鳩の鳴き声、叔母がその声を真似ている!と直ぐに察した私は叔父との痛快な冒険を頭に浮かべると、それまでの鬱陶しい気分がまるで嘘のように晴れたのだった。泣き止むと叔母は相槌を打つように頷き、私の頭を幾度も撫でながら「それで・・山鳩は見付かったの?」と優しく尋ねて来た。涙を拭いながら「いいえ」と答えると、「鳴き声だけでも聞けてよかったわね」と褒めてくれた。赤子を包む優しい響きを持つこの言葉をいつまでも忘れることはなかった。そして、時々この言葉が恋しくなると私は誰か彼れ構わずヤツ当りしたい衝動に駆られ泣きじゃくっては母を困らせた。
それは戦後間もない頃のことであった。
 父は戦地(シベリヤ)で腎臓結核に取り付かれ無事に帰還したが日々の療養を余儀なくされ、生活費に追われる母は夫の看病しながら小さな食堂を営み昼夜問わず忙しく働き続けていた。但し、母の苦労はこればかりではなかった。彼女が十八歳の時、同時に両親を失い(病死)三人の妹と二人の弟を抱えた姉の立場にある母は、親代わりとなって家族の生計を立てねばならぬ悲運に見舞われた。この逆境に立ち向かい大勢の肉親を無事に育て上げた経緯からすると、叔母にとっての母は両親同然の何ものにも代え難い存在であった。幼い頃から母の苦労を知る叔母が甥の私に特別な愛情を抱き実子の如く育ててくれたのは自然の成り行きだったかも知れない。また、この事情を知る叔父も病床にある父の代わりにと常に私の遊び相手になってくれたことも、深い家族愛に同情したからであろう。ところが、私が五歳の時(昭和二十五年)、“新しい商売をはじめる”と母が言い出し一家は千歳に移ることになった。母が取り組んだ商売とは、翌年(昭和二十六年)に勃発する朝鮮動乱で千歳に駐留する米兵相手のビヤホールであった。
別れる日、見送りに来た叔母が苫小牧駅のホームで突然に私を抱き締め泣き出した。耳元ですすり泣く声を聞き私は山鳩の鳴き声を思い起こして、もし自分の掌で鳴らすことが出来れば叔母の涙を止められる・・と思うと胸が詰まって何も言えなくなった。千歳に移った後も時々母に連れられ苫小牧の家を訪ねたが、叔母が吹く山鳩の鳴き声を聞くことはなく、別れた時の辛い想いだけが何時までも心の隅で燻り続けた。そして、いつの間にか叔母を悲しい目に合わせた母を恨むようになって仕舞った。
 その後、千歳は米兵が約二万人にも膨れ上がり母の商売は思惑通り繁盛の絶頂期を迎えた。だが、小学校三年生(昭和二十九年)の夏、母の看病も空しく父は早来町の病院で帰らぬ人となった。隣人から腎臓病には離尿作用を促す“西瓜”がよく効く教わった母は必死で街中の果物屋からこの瑞々しい果物を買い集めた。葬儀が終わり用事を思い出して物置小屋に行くと母が溜めて置いた西瓜が山のように積まれてあるのを偶然に見付け、母の深い悲しみを知った私はその場で一日中泣き通した。翌朝、母に内緒でその西瓜を乳母車に積み込み千歳川の岸辺まで運び、母が作った洗濯場からひとつ、ひとつ数え“天国の父に届け!”と祈り波立つ清流に向かって投げ込んだ。西瓜は母の悲しみを川面に止めるが如く浮んでは消え、消えては浮びながら遠く波間を越えやがて見えなくなった。眺めているうちに胸に仕舞って有った母への憎悪は何処かへ吹き飛び、愚かな自分に気が付き腹を立てた。その後も母は襲い掛かる逆境に立ち向かい黙々と働き続け“歳月”は何事も無かったように過ぎて行った。
 私が中学校に入学した頃(昭和三十三年)には既に朝鮮動乱は落ち着き、千歳から米兵が撤退すると母は直ぐに店を閉じた。卒業間近かに迫った修学旅行は十和田湖遊覧と弘前(藤原三代)の歴史巡りであった。“餞別”と言って母から貰った千円札二枚、前日に苫小牧の叔母から郵送で届いた千円札一枚を大切に仕舞い込み意気揚々と出掛けた。生まれて初めて津軽海峡を渡り本州へと向かうこの旅は、今思えば私の青春時代のはじまりであった。宿泊ホテルに着くと真っ先に売店に行き、甘いものが大好物の母へお土産に“津軽飴”を買い求めた。琥珀色の水飴を収めた赤い缶のラベルに描かれた“ねぶた祭り”の武者人形を見て、その勇猛果敢な姿が気丈夫な母によく似ているのでますます気に入った。ところが、店先に並ぶ数多くの土産品を見ているうちにひと際色鮮やかで愛らしい玩具を見付けると、その場で釘付けになってしまった。
手に取るとそれは紙粘土で作られた民芸品の”鳩笛であった。そっと吹くと驚いたことにボウーボウーと音がする・・叔母が吹いたあの時のあの音色とまったく同じだ!樽前山で叔父と一緒に追い駆けた山鳩の鳴き声だ!私の胸は潰れそうになった。幾度も繰り返し吹くうちに駅のホームで別れた時の情景が蘇って来る、山鳩の白くて豊な胸が貝殻の形をした叔母の掌に見えて来た。この夜、“鳩笛”を手元に置き十和田湖が美しく映る絵葉書に“生まれてはじめて海を渡り、鳩笛を見付けました”と記し叔母宛に送った。旅行から帰り、早速に苫小牧の家を尋ねて叔母にこの土産品を渡すと微かな笑みを浮かべ「山鳩の鳴き声・・憶えていたのだね・・」と呟くと唇を噛み締め、その場を立って奥の箪笥に仕舞い込んだ。この時、和服の袖を摘み目頭を押さえて背を向けた悲しげな仕草を私は見逃さなかった。
 この叔母が“産みの母”だと知ったのは、高校へ入学した翌年の夏休みであった。母と叔父との間で起きた“争いごと”がきっかけとなったが、おそらくは私の進路のことで二人の意見が食い違い、それまで父親代わりだった叔父が心配する余り“積年の胸のうち”を吐き出した違いなかった。叔父は兄に当る父に想像を絶するほどの遠慮が有ったのだろうが、母は叔父とは一切会わなかった。もちろん私と叔母も絶縁になったまま時は過ぎた。
高校を卒業した直後(昭和三十八年春)、板橋(東京)に住む叔母(父方の従姉)に預けられ一年発起で大学を目指すことになった。母から何も言われなかったが大学在学中も叔父と叔母には一度も手紙を出すことはなかった。私は無事に卒業すると迷うこと無く千歳に帰り、一年後には母の奨めで札幌の企業に就職した。この間、叔母には何も告げず、少年時代のように気楽に苫小牧の家に行くことは出来なかった。
 母は明治四十三年に下新川(富山県)で生まれ、大正初期に一家が長沼(北海道)に移住し営農に従事する中で叔母が生まれた(大正八年)。二人は約十歳の年齢差があったが、先に叔母が逝き(平成五年没、享年七十五)、後を追うように母が亡くなった(平成七年没、享年八十五)。叔母の通夜、遠慮して躊躇っている私をじっと睨み付け「早く行っておやり!」と母が怒鳴った、その険しい顔は苫小牧駅のホームで見た叔母のそれと少しも変わらず、深い憂いに満ちた暗く切ない表情は今でも忘れることはない。大学時代、学園紛争に巻き込まれた私を叱り飛ばし、母親には内緒だと言って官憲から庇ってくれた板橋の叔母も既に無く(平成二十年没、享年八十三)、現在はご子息が継いだお店が彼女の足跡を物語っている。
 去る平成三十年一月、誕生日を終えた私は数え七十三歳になった。この年齢になって”青春時代“に刻み込まれた“鳩笛”に出張先の東京で再会するとは夢にも思わなかった。・・“歳月”とは悲しみの“溜まり場”であろうか・・それとも、移り行く世を写す“走馬灯”の如きものか・・胸が痛んでならない。いずれにしても、大河の如く私の喜びと悲しみのすべてを飲み込み、歳月”は今も黙して語らない・・何と残酷であろうか・・。しかしながら、今後は上京する度に期待出来る楽しみが出来た。それは何時までも変わらぬ芳しいスクランブルエッグと、・・もうひとつは、何時までも愛らしい“鳩笛”であることだけは確かである。芳しい「玉子焼き」と優しい音色の「鳩笛」は懐かしい二人の母の面影であればこそ、いつまでも“歳月”が私を癒してくれるのであろう。(終)

第1話 クジャクサボテン

~2018.01.05(金)~

 昨年の夏、弊社の定時株主総会にて私は代表取締役会長を辞し相談役に就任した。数年前から創業三十三年の節目を迎えた時は信頼すべき後継者に経営を委ねると決めていたからである。

 創業にはそれなりの苦労があった。しかし、後継者にも“事業継承と拡大”という異質な苦難があるはず、何故ならば創業期と現代を比較すると時代の潮流や価値観、政治情勢や経済事情がまったく異なり、若き社員の気質も大きく変わったようにも思えるからである。しかし、その難局を如何にして克服するかは本人の哲学と手腕によるものであるが故に、決してひるむことなく常に自己研鑽に務めて欲しいと願っている。“未来への夢”を捨てずにしぶとく“努力”すれば必ずや「道は開ける」・・これが私の拙い経験から学んだ教訓である。だが、経営は決して孤独や苦労ばかりではない、心に残る楽しい出来事や窮地から救われた意外な展開、尊敬する人物に出会えるなど“人生の果実”は数限りなくある。要するに「自分の生き方」を見極める修行の場が「経営」という領域にあると言えるであろう。

 さて、弊社設立以来の事業経過は、過年発刊した「創業二十年記念誌」や「創業三十周年記念誌」の中で様々な形で著したが、何分原稿の制限があって残念ながら掲載出来なかった事柄も多くあったと悔やまれる。そこで、その余白を埋めるため、また、現職を辞した後の近況をお伝えする主旨も合わせて、今回より「近頃のこと」と題し、改めて拙文を掲載することにした、「月曜の朝」の続編と言ってもよいのかもしれない。私が退社するまでの短い期間になるとは思うが、後に続く若き社員たちに言い残すことなく、また自分に対しても悔いを残さず、私の体験記を出来る限り書き続けて行きたい。平成三十年を迎え、新たな気持ちで自分の足跡を振り返る意味に於いても、また、来年は元号が変わるとのことに鑑み、弊社が“昭和時代”という時代に産み落とした“遺産は何か”との思いも含め、その心意気をここに刻むことが出来れば幸いである。左様に念じながら、第1話として「月曜の朝」に掲載出来なかった体験談のひとつ「クジャクサボテン」に纏わる爽やかな思い出話を取上げることにした。

 平成七年の夏、弊社は創業期に設置した(昭和五十九年六月)事務所を移転することになった。当初は約50坪の小さな事務所と社員8名で出発したが、約十年を経過する中で売り上額が延びるに従い社員数も増え事務所が狭くなったのが移転の理由であった。表向きは“事業規模の拡大を図るため”と格好よく社員に説明したが、実情は経費が嵩み利益率は低下する一方で財政は火の車、よって、真の目的はコストダウンと開発作業の効率化、左様なことはおくびにも出さず胸の中に仕舞い込むことにした。北海道にもバブル崩壊の兆しが見えはじめた頃のことである。同業者の倒産が目立ち我が社も多少なりとも不良債権を抱え、銀行からの借入金も増えていた。この難局から逃れるためには安定した収入源の確保が必須、私はビッグユーザの開拓を目標に昼夜問わず営業案件を追い求めなければならない窮地に落込んでいた。ある日のこと、帰り道に寒さと辛い気分を紛らわすため小さな“おでん屋”に立ち寄った。札幌駅近くの中通りを行くと赤提灯がポツンと灯り、暖簾を潜ると母親と娘さんが切り盛りしている小さなお店だった。時々立ち寄るうちに常連になり、次第に悪い癖が出て“飲み代”を溜めるようになった。よく憶えてはいないが、おおよそ三か月分ぐらいと思うので十万円ほどではなかったか・・・。

 忘れもしない引越しが無事に終わり落ち着いた秋、お店の娘さんが新しい事務所を訪ねて来た。お母さんからの伝言だと前置きして「飲み代はご祝儀の代わりとして精算」と言い、「お祝いに、縁起がいいから傍に置いて下さい」とクジャクサボテンを持って来た。それでは余りにもあつかましいので“せめて飲み代は払わせて下さい”と言うと、“出世払いでいいです!”お母さんからの言付けとのことで、あっけなく私の申し出は断られた。暖かい人情に触れた思いがした、久しく“お祝い”など頂いたことのない私は感謝と感激で胸が一杯になった。早速、自分の机の上に置き、青々と茂る鉢植えを毎日眺めることにした。

 十一月末、一週間ほどの出張から帰りサボテンの様子を覗うと、逞しく成長した枝々に数え切れないほどの青い蕾が健気に並んでいる姿を発見した。眺めているうちに、無数の蕾たちが応援歌を歌いながら私に向かってエールを送っているように思えて来た。私は娘さんが言い残した「縁起」の意味をはじめて知る思いがして胸に熱いものが込み上げた。地獄で仏に会うとはこのこと・・どん底で喘ぐ私の勝手な解釈かも知れないが、この花が社業「繁栄」のシンボルだと思うと、心の何処かに自信と勇気が湧いて来た。

 クリスマスを迎えようとしていたある日、ふと、目を転ずるとあの蒼い蕾たちが鮮やかな橙色に変身して鉢からこぼれんばかりの花を咲かせていた。まるで夜空に放った花火のように見違えるほど艶やかな姿形を装い私の前に現われた。これも突然だった。机の周辺が神々しい光を浴びたように輝き、社員たちも大喜びで「お正月は玄関先に飾って来客にも見てもらおう!」と大声を挙げ元気を取り戻した。全員一致でジャクサボテンを玄関先に置くことに決め、水遣りは社員の日課となった。この時、既にこの橙色の花だけが予知していたことかも知れないが、苦戦していた営業案件が漸く決まり、長年の苦労が実って業績が上向きはじめたのである。期末決算処理は好成績を納め、向こう三年間に渡る売り上額の見通しも立った。定時株主総会では社員の努力により“営業案件の増大”と“移転効果を得て利益率の上がった”と株主に説明した。しかし、心の中では肝心要の要因はもうひとつ「クジャクサボテン」が見守ってくれたお陰です!と叫んでいた。お店の女将と娘さんとのご縁で“縁起”と言って授かったクジャクサボテンは正しく社業発展の前触れ、私はこの母親と娘に救われたのである。

 以来、感謝の思いは私の胸の裡に仕舞い込んだままである。しかしながら、驚くべきことは約二十二年間の歳月を経てクジャクサボテンはクリスマスが近づく度に打ち上げ花火のように艶やかに咲き誇っているという事実であろう。この姿は、まるで我が社の繁栄を祝い、あの母親と娘さんがいつまでも見守ってくれているかの如くある。凛としたその姿はまるで“守護神”の如き品格に満ちている。勿論、今年も見事に咲いたが、その健気な姿を眺めていると苦しかった当時を決して忘れてはならない!と私や社員たちを諌めているように思えてならない。

 何時の時代も経営者の苦労は尽きない、しかし、様々な人々との出会いから巻き起こる予期せぬ喜びや感激、この無形の人的資産こそが社業発展の原動力になることを見逃してはならない。毎年毎の決算数字には無形の価値が潜んで在ることを、後継者に是非とも学んで欲しいと願っている。私の拙い経験によれば、経営者の品格とは人情に触れる喜びと感謝を待つ心を有すること、美しいものを愛でる豊な感性を身に付けることに在ると思われる。(終)

設立三十周年記念事業の開催

 ●記念事業への取り組み
         ~もっと前へ進もう~
 弊社は去る平成二十六年(2014年)六月をもって設立三十年周年を迎えた。
 同年六月、株主総会が終わると役員や社員諸氏からこの節目をバネに“更に十年後を目指そう!”との声が掛かり、全社挙げて“設立三十年記念事業”に取り組むことになった。
 遡ること十年前、設立二十周年では役員会からの提案により記念事業として社員会を中心に家族と共に参加する懇親会を開催、加えて「二十周年記念誌~われら北よりを発信す~」と題する記念誌を発行、家族との交流を深めると同時に会社の歴史を辿る有意義な事業となったことは記憶に新しい。
 今回、再び「もっと前に進もう!」との声を聞きながらこの十年間の足跡を振り返ると、長期に渡る厳しい経済情勢の中で“何とかここまで辿り着いた”という切実な実感に打たれ、同時に胸を張って“みんなでお祝いも兼ねた記念事業にしよう!”との感謝の気持で一杯、是非とも社員のチベーションを上げる内容にしようと実行委員会を立ち上げた。委員会での諸準備では全員が参加できる方策を模索、行事内容や開催日程は各自の都合で選択出来るよう幾つか用意、予算は可能な限り個人負担を軽くするため二年間で“積み立て”をするなど、社員のニーズに合わせ様々な視点から要件を吟味した。“記念事業”と言う団体行動はお互いの理解と協力がなければ実現しない、大勢の意見を“ひとつ”にまとめるためにはそれぞれが何処かで妥協点を見出す努力が必要だが、この点、組織力でひとつの目標を達成するプロジェクトでの体験が役に立ったと思われる。諸準備に約二年間を費やしたが、その甲斐があって将に「設立三十周年記念事業」に相応しく全員協力の下で楽しく思い出に残る慶事を予定通り終えることが出来た。この素晴らしい成果は実行委員会諸君の企画力と努力の賜物であろう。

●事業概要と検討経過
          ~社員の要望を募る~
 平成二十六年七月、株主総会直後の役員会に於いて記念事業はあくまでも社員の自主性と自発性を尊重することを主旨として、必要に応じてアンケート調査を行い社員の要望に沿って計画立案から実行までを推進する実行委員会を設置することに決定した。委員会のメンバーは幹部と一般社員の数名による顔ぶれ、秋が近づいた頃、アンケート調査を分析した結果、要望の多い“海外(台湾)旅行”と“車椅子の寄贈”(ボランテア活動の一環)の二件を選考することになった。概略や要件、費用などを旅行代理店や福祉関連団体に問い合わせ詳しく調べたところ、“海外(台湾)旅行”では参加者全員のパスポート取得と旅行日程は少なくとも3泊4日を必要とする、“車椅子の寄贈”は福祉現場の多様なニーズに対応するためには“特別注文”が相応しいなど、幾つかクリアしなければならない課題が明らかになった。様々な視点から検討が行われ弊社の実情や実現性を考慮した結果、海外旅行は国内旅行へ変更、車椅子の寄贈は別な機会に譲り、別途、「設立二十周年記念誌」の“続編”としてこの十年の社業を整理し「設立三十周年記念誌」を発行することになった。国内旅行については改めてアンケート調査を行ったところ、記念事業には“富士登山”が最も相応しいとの要望が多数を占め委員会の協議を経てこれを採択、実行予算は個人負担の他に、これを軽減すべく社員会支援金と会社支援金を加えて予算化する方針が固まった。また、旅行工程は各人の体力や気力に合わせ“登山”と“周遊”のふたつのグループに分け、いずれも日程は二泊三日、千歳空港から羽田空港を経由し観光バスで東名高速道路を南下し山梨県に入るルートを原案に旅行代理店と検討を重ねながら諸準備に取り掛かった。“日本一の富士山を登る”をテーマに工程と日程が各自の都合により選択出来る点がこの記念旅行の特長であり魅力となった。
 待ちに待った平成二十八年七月、先発隊の第一班(七月九日(土)~十一日(月))は参加者16名による周遊組、続く第二班(七月十六日(土)~十八日(月))は登山組(17名)と周遊組(11名)の混成チーム、このチームは途中(富士山五合目)で“登山コース”と“周遊コース”に分かれ、帰途に着く最終日に羽田空港で合流することになった。
 一方、設立三十周年記念誌発行は平成二十七年十月にメンバー十二名(オブザバーも含め)による編集委員会を設立し、前回に習い「設立三十年記念誌~われら北より発信する~」と題し、表紙の装丁や字体、その他様式は共通のデザインを施し、二ヶ月毎に委員会を開催しながら作業計画に従い骨子や章立て、原稿の手配や・校正、挿絵や写真などの編集作業を進めた結果、本年九月下旬に発刊する目途が立ち現在は最終校正に取り組んでいる。

(富士山周遊の様子はコルシャブログへ掲載しておりますので
 よろしければそちらも併せてご覧下さい。)

第23話 吹雪の中で

~2016.03.01(月)~

 昨夜から全道に渡って記録的な猛吹雪に見舞われた。今年の冬(札幌圏)は雪が少ないからもう直ぐ春が来ると仲間の顔がほころび安心していた矢先だったが、北国の冬はそう甘くはないようだ。遅れたバスを待っていると、二人の高校生が楽しそうに話しながら傍を通り過ぎるのを見掛け、ふとクラス会のことを思い出した。この二人の弾んだ会話から察すると卒業を目前に控えたクラスメイト・・遠い昔の自分と親友K君を思い出し懐かしい姿が蘇った。昨年、秋も深まった頃、卒業して初めて開かれた高校時代のクラス会に出席、仲間と青春時代を語るうちに“自分はいつの間にか老人になった”と痛感、知らず知らずのうちに“歳月”は行き過ぎていた・・再会の喜びとは裏腹に心の何処かにポツンと小さな穴が空いたような空しい気がして来た、同席したK君も同じことを呟くのを耳にした。果たして“歳月”とは過ぎ去った時間を拾い集め、老人がもの想いに耽ることなのだろうか・・この時、私は釈然としなかった。
やがて猛吹雪の中からバスが現れた。このバスが走る道は小学生の頃にビー玉遊びで親しんだ商店街、学友と一緒に高校へ通った通学路である。見慣れた街中を眺めているうちに私にとって“歳月”とはいったい何か・・クラス会の折に取り付かれた空虚な気分に戻った。紛れもなく私の“歳月”はこの“通勤生活”にある・・晴天であろうが、吹雪であろうが、大雨や大嵐であろうが、少しもめげず一筋に通い続けて来たこの平凡な生活こそが“我が人生”!吹雪の中からもう一人の自分が叫ぶ声が聞こえて来た。
毎朝、決まった時刻に自宅前からバスに乗る。いつの頃か定かではないが、朝の乗客はいつも私一人、顔なじみになった運転手さんに“おはよう”と挨拶する、ここから私の一日がはじまる、即ち私の歳月(=生活)の原点がここに在る。千歳駅に着くや否や札幌・小樽行き電車(JR千歳線)に乗り込み、札幌駅では地下鉄南北線に乗り換える。通勤客と観光客で混乱する地下街を素早く通り抜けると改札口が見え、その向こうは大通り公園まで地下道が続いている。その大通り公園駅で今度は東西線に乗り継ぐ、目指すは、また、ひとつ先の地下鉄西11丁目駅、そこには険しい階段が待っている。乗客ともみ合いながら下車してこの階段を登り詰めると目の前が開け石山通りに出て、冷たい風に晒されると漸く一息付くことが出来る、これが私の通勤事情である。帰りは、もちろんこの逆コースを辿るが、帰宅時間は必ずしも定期とは言えない。就職したばかりの頃は、自宅からバスターミナルが近かったので千歳と札幌間をバスで往復したこともあった。但し、この頃はまだ飲み友達が現われなかったので帰宅時間もほぼ定時であった。こうした通勤を二十代前半から今日まで約50年近く繰り返して来た。隣人には一見単調な日々に見えるかも知れないが、実はそう順調ではなかった。二十代から三十代前半までは転勤と出向、東京への長期出向など勤務先が変わる中で恋愛と結婚、新婚生活は東京だった。やがて息子三人が誕生し生活も安定したがそれも束の間、三十代後半になって転機が訪れた。二度も勤務先を換えた挙句に会社を設立、母を亡くしたのは四十代後半を過ぎていた。五十代は子供らの進学や就職など巣立つお手伝いに追われ、彼等の結婚と孫の誕生・・など、その折々の中で私なりの喜・悲劇に見舞われながらも何とか無事にここまで辿り着くことが出来た。“歳月”とは大げさに言えば以上の如く“人生航路”を時間軸で捉えたものかも知れない。
しかしながら、私にはもうひとつ別な“歳月”が存在するように思えてならない。昭和四十二年(二十二歳)、私は東京の大学を卒業すると郷里の千歳(在住)に戻った。出来ればこのまま東京に残り何処でも良いから就職したいと願ったが、当時は理工学部や工学部に就職先が殺到した時代、その上に学生運動などに熱を上げた“出来の悪い”卒業生などの就職は困難を極めた、残された道は母親が待つ郷里に帰る他はなかったのである。東京オリンピック(昭和三十九年)を契機に高度経済成長時代へ突入、東京は賑わっていたが地方は相変わらずの就職難、予期した通りに郷里ではアルバイトすら見付からなかった。学生運動で心身共に疲れていたこともあったが、大卒と言う妙なプライドが捨て切れず読書に耽り青臭い文章を書きながら、幼い頃に竹スキーで滑った神社山や父と魚釣りに出掛けた千歳川のほとりを散歩し、何ひとつ宛もなく、退屈な自分を持て余し隣人の厳しい目も気にせず、ぶらぶらと気ままに過していた。しかし、母は小言ひとつ溢さなかった。女手ひとつで大切に育てた一人息子、将来を期して東京の大学まで卒業させたまではよかったが、その先で見事に期待が裏切られたのだから彼女自身の苦悩は計り知れなく、親戚筋から浴びる非難にじっと耐えていたに違いなかった。
ある日、私に内緒で母が知人に頼んで置いた就職先が札幌で見付かった。ところが、先方から届いた「企業案内」を見て私も母も頭の中が真っ白になった。業務内容はコンピュターソフトウエア開発と情報センター運用と記され、五年ほど前に創立したばかりの今で言うところの“IT”の先駆け企業だったのである。“技術”や“機械”などまったく無知・無縁の私には想像も付かず、途方に暮れていると早速母から“仏壇の間”に呼び出された。幼い頃より叱られる時はきまってこの場所に呼び出される。先祖の写真がずらりと並んで薄気味悪く線香の匂いがぷんぷんと鼻に付く中、仏壇の前に座らされると「トシさん!何でもやってみなさい・・駄目な時は、男らしく諦めたらどうですか!」母が先祖の位牌を背に大声を放った。私を相手にと言うよりも天に向かって声を張り上げているような仕草だった。だが、妙に声が震えている。先祖の写真を見上げ手を合わせる母の姿をよく見ると、その眼に微かに光るものが浮んでいる。“萱場家に要らぬ後継者を育てた愚か者”と自分を戒め、嫁として母親として先祖に申し訳ないと亡き父に詫びている姿だった。かくの如く健気な母親を粗末にするとは何事か!この親不孝者!と真から反省した私は、「やってやろうじゃないか!」と腹を決めた。否、“居直った”と言う方がより正確かも知れない。この時、天に向かって母が放ったこのひと言が“雲を掴むような作家の道”を私に断念させたのである。これより千歳と札幌間を往復する生活がはじまったが、この時の一大決心が忘れられない、“何でもやってみなさい”この言葉がその後の人生の支えになった。“歳月”とは、人生そのものを一刀両断に裁く“一瞬”もあり、魂が宿った“言葉”が籠もった“時の流れ”を言うのであろう・・吹雪の中で亡き母のことを思い出していた。到着時間は大幅に遅れたが無事に札幌駅に着いた。構内に設置されたテレビの前に立つと、吹雪は明朝まで続くと報じていた。吹雪は収まらないが、亡き母から “何でもやってみなさい”と言われたような気がして、私の空しい気分は何処かに吹っ飛んで消えていた。(終わり)

第22話仰げば尊し わが師の恩

~2016.02.15(月)~

 冠省
 T君!昨年は貴兄はじめ幹事諸君の“あの頃”と同様に、実に爽やかで深い思いやりに浴し、初めて開いたクラス会に参加でき誠に有難う御座いました。春の早慶戦で同級生が揃ってはじめて新宿へ行進する途中、“紺碧の空”を大声で歌う見知らぬ隣の青年に声を掛けたのが貴兄との出会いでした。この夜の飲み会で意気投合し、次の日曜日には原宿駅のホームで待ち合わせ、日が暮れるまで明治神宮の森を散歩して以来、授業が終わると決まって飲みに誘い合い、時には下宿先まで押しかけたことも有りました。そう言えば、しばしば立ち寄った高田馬場駅前の“M茶房”は我々が暗黙のうちに定めたアジトでしたね。これも、あれも、みんな懐かしい思い出です。さて、この度のクラス会では少しも変わらぬ諸君の健やかな姿に接し、この私までもが元気を取り戻しました。思えば、入学式では同級生五十二名が全員揃っていましたが、途中で学生運動に巻き込まれたり飲食や遊興で学費を使い込んだり、あるいは科目の取得単位が不足して留年した者などが現れ、卒業式では僅かに十八名しか残っていませんでした。その顔ぶれの中、今回のクラス会には十二名が元気な顔を見せたのですから将に“奇跡”とも言うべきことかも知れません。貴兄から指名を受けた諸氏が自己紹介した時、現在もなおプロの文筆業で活躍している者や地方新聞社の記者を定年まで務め通した者がいると知り胸が熱くなり、本人を前に“さすが文学青年!”と叫びたい気持ちを抑えました。そして、全員で乾杯した時は感極まりました、きっと、あの頃の熱い思いがいっぺんに蘇って来たのですね、司会する貴兄の目に光るものを見たのは私ばかりではなかったようです。在学中、私と一緒に同人雑誌「創造派」を発行したO君とも大好きな日本酒を酌み交わした記念すべき再会、彼は最初の授業で顔を合わせた時から小説家を志望し、顔を合わす度に大江健三郎や阿部公房の作品を話題にしました。もうひとりの同人仲間だったD君は萩原朔太郎や中原中也に心酔していましたが、彼は惜しいことに既にこの世を去ったと聞きショックでした。私たち三人で続けた「創造派」は第6号まで発刊しましたが、卒業する間際になって継続するか否か!さんざんに揉めました。私は北海道へ帰る、D君は実家の姫路に戻り家業を手伝うと言い出し、一人東京に残るO君が“オレ一人では無理だ”と怒り、彼のひと言で決着が付きました。私たちは普段から僅かな印刷代をアルバイトで補っていましたから、これ以上続けることは経済的に無理・・これが三人の本音だったのです。でも、誰もが意地を張り通し“金銭”を理由に創作活動を辞めるなど口を裂けても言い出しませんでした、それぞれがプライドを抱き、あくまでも小説家や評論家、詩人を目指すべく密かなる情熱を燃やし、今から貧乏に耐えて置かねばならないなどと、痩せ我慢で繕い笑ってごまかしてました。そのO君から“オレは今もフリーライターだよ”と聞いた時、本当に涙が出るほど嬉しかったです。私が寄稿した最後の作品(創造派第6号掲載)は「展望台」と題した作品でした。故郷の自然を背景に倦怠感に苛まれる都会生活を心象風景として描いた自由詩ですが、これにはちょっとした経緯があったのです。今からお話しすることは卒業間際に起きたことですから同級生は誰も気付いておりません。私の浅はかな了見が招いた出来事ですので貴兄に聞いて貰えれば気が晴れると思い、変わらぬ友情に少し甘えさせ下さい。私は四年生になり一般教養科目の「哲学概論」を受講しました。ところが、三学期末を提出期限とするレポートの成績が“不可”となり単位取得が難しい??と事務局から事前に知らされ、この科目ひとつのために卒業を見送り、一年間を棒に振らねばならないピンチに立ちました。だが、この時、奇妙な噂を耳にしたのです。ご承知の通り学生運動が激化した時代ですから休講が多い教科が続出しました。必ずしもそれが原因だとは思いませんが、卒業生の最終成績は担当教授との面接で決まるケースも有るという噂です。私は“溺れる者は藁をも掴む”の心境に囚われ、その噂にあやかりたいと思いました。知人たちにそれとなく聞き廻ると「哲学概論」のK教授はドイツ実存哲学の研究では学界の第一人者、特にヘーゲル研究では他に追随を許さないという評判の哲学者でした。生粋の研究者であればさぞかし厳しい人格の持ち主に違いないと勝手に想像し“許しを請う”ことを諦めることにしていました。そこへある友人から“お前は男だろう、K教授だって生身の人間だ!一度でいいから当って砕けろ!”と叱咤激励された私は「このままでは母に申し訳が立たない」と妙に強気になり、いざ!K教授に掛け合おうと腹を固めました。「カヤバです」と言って研究室のドアを開け衝立越しに顔を見せますと、窓際の椅子にもたれた教授が軽く右手を挙げ私をテーブルへと促しました。恐る恐る彼の脇に置かれた訪問者用の椅子に座り、所属学部と姓名を名乗ると教授の顔が少し強張り「レポートの件ですか?」と尋ねて来ました。もちろん、青臭い生徒の心理など普段から見破っている達人ですから初対面などお構いなく、冷たい視線を私に当てたままで膨大な資料が積まれた棚から問題のレポートを鮮やかな手探りで選び出しました。この緻密で手際よい動作を目の前にした私は言葉を失い、このまま黙って引き返そうと急いで腰を上げました。すると、「まあ、まあ、そのままで・・」と呼び止められ、私は立ち所に逃げ場を失って仕舞いました。どうやら教授は私が尋ねることを予想していたようです。あるいは、事務局を通し私に“不可”を伝えることでこうした面談の場を作ろうと、わざと網を張ったのかも知れません。私は大蛇に睨まれたカエルのようでした。その大蛇が大きな眼でレポートを睨み付け事前に赤鉛筆で引いた箇所を指差し、ひとつひとつ所見を述べると恐ろしい眼で襲って来ました、しかも最後に「一年間掛けて勉強したはず、君自身が研究したというオリジナリテイが欲しいね」とこの小さな胸を抉るような脅しを掛けて来たのでカエルは“飲み込まれる!”と、覚悟を決めたのでした。私のレポートは教授のご指摘通り様々な小論文から関連部分を抜き出し、それ等を繋ぎ合わせた単なる見せ掛けの文章に過ぎなかったのです。私は学生運動やアルバイトを言い訳に、畏れおおくも“学問の道”を軽視し与えられた宿題を疎かにした不貞の輩でした、後悔先に立たずとはこのことです。ところがです、たぶん・・教授は引き際を見失いモジモジしている私を見て気の毒に思ったのでしょう、「君は郷里に帰るのですか」と声を掛けてくれたのです。千載一遇でした。この時!とばかりに私は「無事、卒業したら母が待つ郷里で仕事を探します」と如何にも相手の“情愛”に訴える女々しい言い訳を返したのです。これも実に“不覚”の至りでした。教授は私の胸中を察してか微笑を浮かべながら視線を窓の外に転じ口を閉じて仕舞いました。“見透かされた・・”私はその微笑を盗みながらこの時ほど自分が恥ずかしい人間だと思ったことはありません。頬や耳たぶが火照るのを憶え、素早く顔を背けてカラ咳をひとつ放つと急いで立ち上がり部屋を出ようとしました。教授に掛け合うどころか、はじめから逃げ腰だったのですね。・・・ですが、私が貴兄に打ち明けようとしている秘密はここからはじまったのです。偶然としか言いようがありませんが、教授に背を向けたその時です、私は刷り上ったばかりの「創造派6号」を右手に握っていました。鮮やかに色採られた真黄色の表紙を教授の鋭い目が見逃すはずがありません「ソレ・・何ですか」と尋ねて来たのです。一瞬、研究室が沈黙に包まれ、時間が止まったと錯覚するぐらいのショックでした。詩や小説でよく使われる“余白”というあの“奇妙な空間”みたいな隙間です、私の場合は摩訶不思議な“人生の間合い“と言う他は有りませんが・・、躊躇い、戸惑いながら振り返ると教授と目が合いました。頭の中が真っ白になりどうしてよいのか解りません。狼狽しているうちに、立ったままで構わないから「展望台」を朗読しよう!・・と閃いたのです。自分の作品ですから声を出して読むと緊張が解れると思ったのでした。無事に読み終えページを開いたままで作品をお渡しすると、教授はポケットから眼鏡を取り出し、机の上でその小さな活字を追い掛けはじめました。やがて静かに私の方へ視線を移し「なかなか・・いい出来じゃないか」と深い笑みを浮かべたのです。私は急いで椅子に座り直し、教授に向かいました。それからほんの30分ほどでしたが、夢のような時間が過ぎて行きました。私から教授へ“現代詩”についてお話しする機会を与えられたのです。今もはっきり憶えていますが、田村隆一詩集「四千の日と夜」や「言葉のない世界」を事例に採り上げ、私自身が掴んだ“日本の詩歌”に対する思いの丈を述べさせて頂きました。教授はじっと耳を傾け、私のひと言ひと言に噛み締めるように頷いておられました。帰り際、「君には才能があるかも知れない・・だが、何よりも大切なことはW大卒の誇りをいつまでも忘れないことです」と穏やかな口調で諭してくれました。こうして目論んだ計略はもろくも崩れ去った訳ですが、著名な教授から私の作品を評価して頂いたことが何よりも嬉しく、しかも卒業間際での貴重な体験で心に染みる出来事だと思い、“母には悪いが一年限りを約束に留年だ”と割り切ると、それまで落ち込んでいた気持ちは何処かに吹っ飛んで仕舞い、K教授とはもっと親しくなりたいという淡い願望が芽生えました。しばらくして、掲示板に卒業生名簿が貼られ覚悟を決めて見に行くと、何と!驚いたことにその一覧表に私の名前が乗っているではありませんか!黒々と毛筆で書かれた我が苗字が眼に入った時、思わずK教授の笑顔が浮びました。後日、手にした成績表の「哲学概論」の欄には“可”が輝いて見え、卒業出来るのはK教授のお陰だ!と思うと胸が熱くなりました。しかし、よく考えると、こうした事態を招いたことには何も然るべき根拠はありません、目立つ行為は返ってK教授にご迷惑をお掛け大切な恩も仇になりかねない・・と自分に言い聞かせ、お礼にお伺いすることは遠慮致しました。以来、今日まで封印は解かれないままですが、証拠に教授の著書「哲学概論」が書棚に残りました。今、その著書を取り出し、貴兄の友情に浸りながらこの手紙を書いています。末筆ながら、もうひとつお伝えします。
 お話したO君から年賀状が届き、クラス会に出席した感激を私にも伝えて来ました。相変わらず不器用な男ですが、本年からは東京を離れ雑誌社の取材を兼ねて気ままな旅を楽しむとのことでした。その末尾に「近々、流氷を見にオホーツクを訪ね、帰りに札幌に立ち寄る」とありました。貴兄も、北海道の地酒で一杯汲み交わす機会を作って下さい。NHK大河ドラマ「真田丸」で信州信濃の風景を拝見、日本の原風景が現存する田舎で余生を送る貴兄は果報者だと思います。もちろん、私も貴兄の故郷を訪ねたく存じます、お互い元気なうちにお会いする機会を増やそうではありませんか!早々

          ************************

 本文中、上記に載せた最初の写真は、去る平成二十七年十一月二十六日(木)母校キャンバスでクラス会を済ませた後、幹事T君から届いた礼状である。その文面に、

     みんなに会えて良かったね 誰も変わっていなかった
     みんな、あの時のままだ   また、会おうね
     人生これからだもの     何回も何回も会おう(2015,11,30)

と記され、さり気無く「また、ね。」と手書きが添えてあった。互いに残り少ない余生を持つ者同士であればこそ、さり気無いこの“呼び掛け”の奥には、青春時代の無邪気な余韻と共に、細き命の糸を紡ぎ再会を祈る友の労わりが蠢いている気がしてならなかった。
(終わり)

第21話「氷川清話」を読む

~2015.10.19(月)~

 幕末・明治期の政治家である勝海舟は文政五年(1823年)江戸で生まれ明治三十二年(1899年)に赤坂氷川町の自邸で七十七年の生涯を閉じたが、その人生は波乱に満ちていた。前半の四十五年間では江戸幕府の瓦解にまで立会い、慶応四年(1868年、明1)の戊辰戦争では旧幕府軍を代表して新政府軍の西郷隆盛と交渉に当り江戸城を無血開城へと導き、維新後は参議兼海軍卿を経て伯爵を授かり、晩年は枢密顧問官に就任、国政のご意見番として明治政府を見守り続けた。遡ることペリー来航時(嘉永六年、1853年)には、無役の御家人でありながら早々に海防論を説き、二年後に開設された長崎海軍伝習所で大きな役割を果たした。安政七年(1860年)に軍艦奉行木村喜毅らと咸臨丸で渡米(サンフランシスコ)、文久二年(1862年)に軍艦奉行並を命じられ、坂本龍馬と出会うのもこの年である。この春、土佐藩を脱藩した龍馬は二十八歳、海舟は四十歳であった。他界する前年(1898年、明31)に徳川慶喜を明治天皇に会わせることで明治維新の仕事に“けじめ”を着けるなど、激動の中でも敗者の意義にも心を留め、近代国家のその後を冷静な視線で透視する威風堂々たる政治家であった。
 晩年は多くの人々と様々な談話を交わした。その内容を各新聞や雑誌が取り上げ、後年になってそれ等を語録集に編んだ小冊子が「氷川清話」である。この中で世間に最も知られるエピソードが福沢諭吉の「痩我慢の説」、海舟は幕臣にもかかわらず江戸幕府を崩壊に追い遣った明治政府の重鎮にも従事、福沢は両君に仕えた彼の行動はあるまじき“私事”として「痩せ我慢」だと称して批判した。これに対して海舟は以下の通り堂々と反論している。本文より、・・福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本(武揚)など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで「批評は人の自由、行蔵は我に存す」云々の返書を出して、公表されても差し支えないことを言ってやったまでサ。福沢は学者だからね。おれなど通る道と道が違うよ。つまり、徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし。唯百年の日本を憂ふるの士は、まさにかくの如くならざるべからず」サ・・。
 「政治家」とは、如何なる政権の下であろうとも、重大な国家の課題に対しては冷静且つ着実に解決へと導く実務家であり、理論にばかりに気を取られ机上の空論を説く学者とは立場が全く違うと否定、“徳川幕府あるのを知って日本あるを知ること”、これこそが百年を憂う士(政治家)の真の姿だと説いた。要するに、海舟自信は徳川であろうと明治政府であろうと、母国である「日本国」を真から憂い、庶民を国難から救うために命を掛けて仕えたと反論した。「政治」に対するこの没我的で誠実な姿勢は、狭い了見で専門分野ばかりを探求する学者の道(思考や方法)と異なり、インターナショナルな社会観と洗練された政治思想によるものであった。“鎖国”の下でしかも“儒教”を国教とする封建社会ではこうした骨太な世界観を持つ政治家の出現を許すはずがなく、従って、海舟は時代が生み落としたミュウタントであったかも知れない。彼が目指した「政治家」とは、忠義とか義理とか“私事”で行動するのではなく、あくまでも「公」の視座で「国家」へ奉仕することを規範としている、この理念の奥底には「新しい国家ビジョン」への熱い眼差しが潜んでいる。長く続いた「鎖国」政策から「開国」へと大きく舵を切った“時代”の激動期を見事に乗り越えた海舟の眼に、果たして江戸時代(封建)と明治時代(近代)がどうのように映ったのか、幕府も朝廷も越えた“新国家”を目指した彼が最終的に何を見出したのか、“崩壊”と“建設”を繰り返す「歴史」とはいったい我々に何を示唆するのか、私は坂本龍馬(稀代の平和主義者)を学ぶうちに龍馬が“今にて日本第一の人物”(姉の乙女に宛てた手紙)と称し“我が師”と尊敬した海舟に興味を持ち、彼の思想と背景をますます知りたくなった。
 今、日本は国内外共に深刻な課題が山積し国政は大きな転換期を迎えようとしている。然るに、わが国の“明るい将来”は展望出来るのか?そのヒントを期待して「「氷川清話」(講談社学術文庫、江藤淳・松浦玲編)を手に取ったのである。
 本文は、海舟の生い立ちや体験談、古今東西に渡る人物論、時事と政治、軍事と外交、文芸論、処世論、維新後三十年の経過など多岐に渡るが、全体を通して勝海舟という人物の特徴は概ねふたつある。そのひとつは、並外れた高い見識の持ち主であり、しなやかな「胆力」を有し機敏な実行力を発揮する実務家で、その基盤は剣術修行で鍛えた強固な心身を備えていたことである。剣術指南役は世に名高い島田虎之助、長く続いた“戦さ”の無い太平の世で剣術は次第に“形”に依存するように変質したが、彼はそれを由とせず、あくまでも実践に即した稽古を奨励した。本文より、・・(略)本当に修行したのは、剣術ばかりだ。(略)それからは島田の塾へ寄宿して、自分で薪水の労を取って修行した。寒中になると、島田の指図に従うて、毎日稽古がすむと、夕方から稽古着一枚で、王子権現に行って夜稽古をした。(略)心胆を練磨し、また起って木剣を振りまはし、かういふ風に夜明けまで五、六回もやって、それから帰って直ぐに朝稽古をやり、夕方になると、また王子権現へ出掛けて、一日も怠らなかった。(略)かうして殆ど四ヶ年間、真面目に修行した。この座禅と剣術がおれの土台となって、後年大層ためになった。瓦解の時分、万死の境を出入りして、つひに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった。(略)・・おれはこの人間精神上の作用を悟了して、いつもまづ勝敗の念を度外に置き、虚心坦懐、事変に処した。それで小にして刺客、乱暴人の厄を免れ、大にして瓦解前後の難局に処して、粛々として余地を保った。(略)
 海舟の強靭な精神力(虚心坦懐)と機敏な行動力は、厳しい「剣術」と「座禅」修行によって培われた。例えば「江戸城無血開城」の如く“勝敗”にこだわらない「政治的決断」は、学問(儒学と蘭学)から得た高い見識もさることながら、実践的な「剣術」と「座禅」の修行で養った鋭い「感性」と「胆力」によるものであったろう。
 もうひとつは、当時の社会規範(儒学)や古い因習に囚われない「自由人」、時には“無頼”とも見える大胆な言動と行動を貫いた点にある。“江戸っ子”気質で歯切れのよい論客ぶりは「氷川清話」の文体そのものに表れている。相手構わずズバリと切り込む強面な主張は海舟の十八番、痛快な話し言葉で相手を圧倒する語調は、龍馬が姉の乙女に呼びかける手紙の中に見るユーモアに満ちた下世話な口調と合い通ずるところがあり、黴臭い武士には見られない賑々しい町人の匂いをプンプンと放っている。龍馬の生家は“才谷屋”と言う屋号を持つ裕福な商家で、しかも次男だから自由奔放な性格を有したことは間違いない。また、海舟の父親である勝子吉は幼名を亀松といい、七才の時に旗本の勝甚三郎の養子に迎えられたが、小吉の父親である男谷平蔵も元はと言えば男谷家に招かれた養子であった。平蔵の父親は貧農出身の米山検校と呼ばれ、江戸に出て蓄財し旗本株を手に入れたことにより武士への”家系“が開けたのである。従って、祖父平蔵から父親の小吉へ、小吉から息子の海舟へと町人気質が受け継がれたことは明白、海舟もまた龍馬と同様に町人文化を背負っていた。小吉は「夢酔独言」と題する日誌を残し、その文体も「氷川清話」と同じ口語体で身近な日常生活や子供の話題をありのままに描き、龍馬の手紙が醸す飾らない素朴さと快活な雰囲気にもよく似ている。
 自由奔放な口調は「氷川清話」の真骨頂、例えば、日清戦争が終わり、明治三十年末に第二次松方正義内閣が崩壊、代わって第三次伊藤博文内閣が成立するが、その直後の談話は以下の通り収録されている。本文より、・・(略)伊藤がよして松方が代わっても、松方が引いて伊藤が出ても、格別変わった事もないようだが、そうするとみんな団栗の背競べと見える。おれは薩摩の人に遇うと蛮勇だといってやるが、しかし、目の前の事に小刀細工ばかりやって居る世の中では、蛮勇の方がむしろ男らしいかも知れにないョ。(略)・・
 伊藤博文は長州人、松方正義は薩摩人であるが、この文節の背景には不甲斐ない薩長閥政治への批判が覗いている。明治維新の主役である長州や薩摩人についても、彼が目指す「政治家」のレベルと人格的に大きな隔たりがあるとし、金銭欲に塗れ打算的な策略家の如き評価を下す処世論は注目に値する。本文より、・・(略)長人と薩人のヤリ口を一言でいえば、長人は天下をとるために金を稼ぐが、薩人は金を得るために天下を稼ぐという相違がある。ソレと、モ一つ、長人は死んだ後々の事までも誤解されぬように克明に遺言などをかくが、ソコに行くと薩人は至極アッサリしたもので、斬られ場に直っては一言もいわず、知己を千載に待つという風があるのサ。吉田松陰や西郷はなど、よい対照だよ。・・(略)
 翻って言い換えれば、薩・長・土・肥の下級武士たちが中心となり、一部の武闘派によって巻き起こしたクーデターが後世に於いて“国際化”へ導いたが、その国政を担う彼等が果たして新しい国家ビジョンを描く「知性」と「力量」を有していたのか!を海舟は辛辣な眼で問い正す。この一節を読むと、我が国の近代史が如何に“薩長史観”(勝者の歴史)によって都合の悪い史実が封印され、歪曲されて来たか?いささか疑念を抱かざるを得ない。近代史は“敗者”の史実も含めて評価しなければならないであろう。
 こうした海舟の鋭い先見性や実務家としての才能は、若き御家人時代から既に備わっていたようである。顕著な例として、米国艦隊の来航に驚いた幕閣たちが右往左往する中、僅か40俵取りの幕臣で小晋請(無役)組の勝海舟(31歳)が海防意見書(愚存申上候書付)を幕府上層部に提出した。長年、将軍直属の老中や若年寄が権勢を誇る幕政体制で無役の御家人が上申するなど、到底有り得ぬことであった。概要を見ると(1)人材をよく選べ(2)軍艦を造る(3)江戸の防備(4)学校を創る(5)火薬と武器を作るなど、極めて具体的な対応策が記述され、それまでの保守的な政治とは全く別次元の革新的内容に触れ、既に幕政が無力に近いことを見破っている。これを発端に幕府は朝廷の意を外に「開国」へと踏み込む、二年後の安政二年、オランダ海軍中将を招聘して長崎海軍伝習所を設立、勝海舟はじめ榎本武揚や矢田堀景蔵、中島三郎助などの異才が全国から集まった。驚くことに、海舟はこの伝習所滞在中に見聞した事柄を克明に記録し「蚊鳴余言」と題する小論文を残した。伝習所の教習プログラムをはじめ彼が学んだ自然科学や海事・軍事、様々な海外知識と伝習所に携わった人物、オランダ講師を通して見た日本人への評価など、冷静な目を通し国際的な感覚で書き留めており、海舟が実務家として如何に正確で綿密な観察眼を有していたかがよく解る。おそらく彼は、日本近代史に於いて最初に登場する国際人の先駆けであったろう。先駆者と言えば思想家の横井小楠もその一人である。本文より・・(略)おれは、今までに天下で恐ろしいこの二人見た。それは横井小楠と西郷南州とだ。横井は、西洋の事も別にたくさんは知らず。おれがおしえてやったぐらいだが、その思想の高調子なことは、おれなどは、とてもはしごを掛けても、及ばぬと思ったことがしばしばあったヨ。(略)・・
 海舟は横井小楠の開明的な思想と西郷隆盛の頑強な実行力が組み合えば、今や権勢を失った幕府など簡単に崩壊すると睨んでいた。二人が有する優れた知力と並々ならぬ度量の大きさを知る海舟は、目先を繕い“欧化主義”に耽り華美で贅沢三昧な日常生活を送る元勲たちを厳しく諌め、「胆」の据わっていない亜流の政治家であると酷評し、政治の真髄は「誠心誠意」にある!と唱える。加えて、近代日本のあり方についても触れている。本文より、・・(略)世界の大勢につれて、東洋の風雲がいよいよ急になって来たから、われわれ日本人たるものは、深く注意してこれに処する方法を講じなくてはならない。それには少くなくとも、これまでのやうな偏狭な考へを捨てて、亜細亜の舞台に立って世界を相手に、国光を輝かし、国益を謀るだけの覚悟が必要だ。そして、こんな大精神を国民の間に養成するのは、国家教育を盛んにするよりほかに道はないが、その国家教育の基礎は、実に小学教育にあるのだ。(略)・・
 つまり、国際化社会では視野の狭い政治家は通用せず、日本は欧米諸国の下僕ではなく、あくまでも亜細亜の中の一国として位置付け、国益を謀るためには“覚悟”を有する勇気ある政治家がことに当らねばならないと諭す。文中「こんな大精神を国民に養成するのは・・(略)・・小学教育にある」とは、豊かな「情操」と厳格な「倫理」を重ずる日本の伝統的精神を宿す「藩校」や「私塾」をイメージしているようでもあり、他方では、西洋文明の象徴である合理主義や競争原理に対していささかの危惧を抱いているとも思われる。いずれにしても、維新以前に蓄積された風土、即ち、地方豪族や藩主が築いた「地方自治」や儒教で培った「精神」を全面的に否定はせず、一人の国民的な立場(彼は現代の我々と同じく“国民”という意識を既に持ち合わせていた)に立ち、「新しい国家としての日本」を追い求めようとした。そして、海舟は「この国の民は、ひょっとすると明治よりも江戸の方が幸せだったかもしれない」と言う意外な言葉を残すが、その真の意味は、彼が亡き後の日本の悲惨な歴史が物語っている。
 これから先は私の余談である。
 日本の近代史を学ぶと、概ねふたつの課題が見えて来る。ひとつは明治維新(1868年)から約170年を経た今日まで、前半の約100年間は日清(明26)・日露戦争(明36)はじめ第一次世界大戦、満州事変、日中戦争を経て第二次世界大戦(昭20、敗戦)へと続く過酷な戦争の歴史であり、太平洋戦争では約310万人に及ぶ日本人の尊い“命”が犠牲となった。19世紀に於いて、欧米列強国がアジアへと植民地支配を広げて行く大海原で日本が初めて経験した国家存亡を掛けた厳しい試練の歳月、その深い傷跡は現在も海外諸国との間で生々しく疼いている。特に尖閣諸島、竹島、北方四島などの領土問題は、「国防」の観点からも早急に解決すべき政治課題である。
 もうひとつは明治国家が築いた「中央集権」という政治体制の“光”と“影”である。「富国強兵」の下で「欧化主義」がもたらした西洋思想や様々な技術、多様な生活文化は我々に豊かな暮らしをもたらし、“民主主義”と“自由経済”社会の下で安全な国民生活が保障され、他の先進職と共に発展して来た。これは正しく“光”である。しかしながら、その一方では約100年間にも及ぶ戦争を続けたことで、膨大な戦費に掛かる財源と必要な人材は惜しまれることなく地方から吸い上げられたことも事実である。即ち、江戸時代に培った地方財政と優秀な人材は全て国家権力(中央)によって戦場に狩り出されたと言ってよい。この暗い“影”が全国辻浦々へと広がり今日の“中央と地方との格差”を引き起こす起因となった。明治期、大正期、昭和を経る中で、地方の衰退は現在も回復の見込みが立たないほどに枯渇してしまったのである。海舟はこの悲劇について既に「氷川清話」の中で“予知”能力を発揮している。それは、東京一極集中型の政治体制へ投げ掛けた疑問であり、社会秩序を失いつつある日本人への警鐘とも言える。悲劇の出発点はいったい何処にあるのか?日露戦争が終結したあたりから過激派や武闘派たちが政治の舞台に姿を見せ、やがて横行する軍国主義の下で軍人が政権を握って行く、この間、冷静な判断で具体的な実務を正確に処理できる勝海舟の如き政治家が何故出現しなかったのか!あるいは、出現したとしても龍馬の如く直ちに政界の隅に追いやられたのか?次々と摩訶不思議な疑問が沸いて来る。
 「地方の時代」と呼ばれて久しい。敗戦後、日本は国土復興を旗印に国政は経済政策を重点として「所得倍増論」をはじめ「日本列島改造」や「地方創生」などを唱え、近年は「地方再生」と言うスローガンが飛び交っている。しかしながら、これ等はいつも“中央”の声で始まり“中央”の声で終わった。今もって“豊かになった”と胸を張って言えるほど地方経済は回復せず、依然として“繁栄”は東京に偏ったままである。司馬遼太郎は「明治という国家」の中で“東京”は西洋の「配電盤である」と称した。国際経済を含む海外情報や技術など全ては“東京”を経由して地方に配られるが故に、地方は回復どころか“格差”は広がるばかりだと指摘している。
 言うまでもなく、地方の繁栄は、地域開発計画の立案と内容に於いて地方自治(政治)と住民が主役でなければならない。そうでなければ単なる絵に描いた餅であろう。この点、江戸時代は各藩主(地域のリーダ)が領地の特性に応じた産業振興策を推進し、藩校や私塾が人材を養成しながら財政改革を厳しく断行した。即ち、地場力はそこに住む人々によって作られ支えられていた。城下町や門前町など我々が旅行先きで見掛ける落ち着いた町並みや美しい風景、温かい人情味はみな江戸時代までに築かれた地方武士や豪族たちの文化遺産である。“自主性”を確立する為には、“地場力”(政治・経済・教育・文化)を自前で育てることが大前提になる。もう一度、新たな角度から江戸時代を見直す必要があるだろう。
 開道170年を経た今日、これからの北海道に勝海舟の様な「知性」と「胆力」が備わった政治家や経済人がきっと現れる・・そうすれば、必ずや新しい開発ビジョンが日の目を見る時が来る・・と念じつつ「氷川清話」を読み終えた。
 すると、ふと・・ある記憶が脳裏を過ぎった。戊辰戦争の終焉となった函館戦争で幕府軍の指揮を執った榎本武揚が構想した“独立共和国”である。彼もまた海舟と共に長崎伝習所で学んだ秀才の一人である。そう言えば、去る2008年のこと、大勢の有志が集まり「榎本武揚没後百年記念事業」を実行すべく“札幌実行委員会”を組織した。記念事業は準備期間も含め約二年間に渡り、榎本武揚の縁の地である函館と札幌、小樽に分かれ、それぞれの実行委員会が独自に企画した事業を展開した。この年の秋、我が実行委員会は道新ホールに約600名を越す参加者を迎えて「北海道の未来」を語るシンポジュームを開催、これをもって盛会のうちに全事業を終えることが出来た。帰り道、祝杯を上げた仲間たちの晴れ晴れとした顔が浮び、目を閉じると榎本武揚がオランダ語で綴った「冒険こそが我が最良の師である」という言葉が蘇って来た。(終)
(参照資料)「日本全史」(講談社)、「氷川清話」(江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫)、「氷川清話・夢酔独言」(川崎宏編、中央公論社)、「海舟余波」(江藤淳著、文芸春秋)、「南州残影」(江藤淳著、文芸春秋)、「幕末史」(半藤一利著、新潮文庫)、「昭和史」(半藤一利著、平凡ライブラリー)、「明治という国家」(司馬遼太郎著、中公文庫)、「龍馬が行く」(司馬遼太郎著、文外春秋)。

第20話 新入社員研修

~2015.9.28(月)~

 毎年、新年度が始まる四月初旬から五月末までの約二ヶ月間、私が新入社員研修の講師を務めて来た。企業組織や上下関係を知らない新入社員たちの眼に“会長”という妙な肩書きを持つ私の言動や立ち振る舞いが、どの様に映るであろうか?想像も付かないままに講師を続けている。扱うテーマは前回よりも新しく、もっと研修プログラムを増やし期間も延ばす・・など、毎回、色々と頭に浮かぶが、大切なことは講義の主旨と目的だと思い同じ研修プログラムに徹している。この研修が終了すれば生徒はそれぞれの職場に配属され、現場では企業人としてのマナーを学び、様々な専門ノウハウと業務知識を身に付け、いずれは“優秀な技術者”として成長するであろう。“人を育てる”ことは想像以上に長い歳月を要する、だが、果たして短期間で終了するこの研修はどれほど役立つのか?不安を憶えながらも“期待”を抱きながら奮闘している。
 社員に求められる能力を問えば、日々の業務遂行能力は勿論のことだが、これとは別に部下から尊敬され、得意先からも信頼されるなど“厚い人望”が究極の課題である。その“人格”を習得するにはどうすればよいか!仕事に追われる現場で身に付くのか?望まれる教育の“場”はいったい何処なのか、“研修会”や“セミナー”にさえ参加していれば済むのか?この点を色々と考えると、我が社全体として社員一人一人が切磋琢磨するような“企業風土”が先決だと気が付いた。日々の仕事の中で自らの手で築かねばならない課題である。この研修を通して私がその先頭に立たねばならない・・今もそう思っている。“企業風土”こそが”人材“を育成する基盤!と信じて講義を続けている。現場を持たない私が出来る唯一の仕事!と自分に言い聞かせ、やり甲斐のある仕事だと誇りを持っている。様々な問題と取り組む勇気、的確な判断と強い意志で難題を解決して行く胆力、それを得る為には豊かな感性を引き出さねばならない、そのヒントを見出す糸口を探ることが私の役割である。今は“種を蒔く季節”と自問自答し、新人の魂を揺すぶる研修を!と念じ、“歴史”や“革命思想”、“人生観”など、あえて仕事と離れたテーマを取り上げ、生徒と先生が同じ土俵の上で学ぼうと、悪戦苦闘している。
 私の講座は3つに分かれる。導入部の教義は「期待される社員像」、「文章を読み、書くこと」、最終講義は「日本の近代史を学ぶ~明治維新と開拓史」である。「期待される社員像」は(1)HIT技研イズム、(2)よりよく生きる(3)期待される社員像の三課程、紙面の都合で各項の内容については詳しく触れないが、弊社の設立理念に触れ、地域社会に役立つ技術集団を目指し、新しい地域コミュニティを形成するお手伝いを担い、専門技術の先取りと普及に努めることを説く。その為には社員一人一人が優秀な技術者であると同時に、幅広い視野と高い社会性を持ち品位ある“人格”を備えてなければならないとする。私の講義が倫理性や道徳性を重視するので生徒たちには古めかしい教訓のような印象を与えるかも知れない。例えば明治維新の先駆者である吉田松陰が残した文章の中に見える「至誠にして動かざれば未だこれ非ざるなり」を解釈したり、会津藩の「什の戒め」などを紹介すると部屋の中がシーンとなる。どの言葉も古臭く理解し難い内容だが、実はこのタイミングが理解を深める“鍵”となる。各人の解釈を素直に受け止めながら当時の社会風土を重ねる、それは、同時に失った日本人の伝統的な思考を探ることになるからである。
 そこで私は日本の近代史に触れる。明治維新以来この約170年間、この底流には合理主義と競争原理が近代人の思考や行動の規範(マニュアル)となって来た。“理屈”に合わないことは“非”であり“否”である、弱肉強食の世界は“勝者”が正義、“敗者”は悪業と決め付ける。しかしながら、江戸時代に奨励された“武士道”は必ずしもそうではなかった。“源平合戦”や“国取り物”にも美学や美意識が優先した。例えば、江戸時代の会津藩の“戒め”を例に採れば“目上の者に背いてはならず、敬わねばならない”“うそを付いてはならない”“弱い者をいじめてはならない”“卑怯な行為をしてはならい”とある。”ならぬものはならぬ“と具体的な説明も無く頭越に禁じ、その理由はそれぞれ受け取る側の感性と想像力に任せた。言い換えれば”もし、掟を守らなかった何が災いするか“を容易に想像できる時代、即ち、封建制の強固な社会秩序があった。この鋭い感性と想像性は既に現代日本人が何処かに置き忘れてしまった倫理観である。昨今の新聞やテレビなどで報道される企業不祥事や残酷な殺人事件などを見ると、今の日本は大切な社会秩序を失ったかに思えて来る世相である。
  次の講座「読む、書く」は私の経験によるものである。小学校三年生になったばかりの夏、父親が病死して私に怖いものがなくなった。放課後は羽が生えたように遊び呆け日が暮れるまで家に戻らなかった。泥まみれで家の玄関先に立つと、心配していた母が渋い顔をして待ち構えていた。靴を脱ぐ暇もなく、「勉強は、読み、書き、そろばん!」と母に怒鳴られ、背中の鞄から国語の教科書を取り上げられた。母は荒々しく教科書をめくり、素早く指で止めたページを指差し「ここ、読んでみなさい!」と険しい目で睨む。私はそのページを恐る恐る声を出して読みはじめるが、途中、声が細く途切れ途切れになると「もっと大きく、もう一度」と叱られ、何度も繰り返した。赤鬼のような母の顔を目の前に私はぶるぶると震えていた。お仕置きはそればかりではなかった。漢字が読めなくなると“○印を付けなさい!”と厳しく注意されるだけで、教えてくれたりすることはなかった。鉛筆でその箇所に○印を付け、部屋に戻って辞書を引いてから母に報告する約束だったからである。“辞書”を引くことは憶えたが、母への恨みは深まるばかりだった。この夏、父を亡くした少年の悲しみは余程辛らかったに違いなく、母への“反抗”は年が明けて新学期が始まるまで続いたように記憶している。新学期を迎えて、新しい教室と担任の先生も変わったので少年の心境も少しは改まったのかも知れないが、それまでのウジウジした気持ちは嘘のように収まり、国語の時間には声を出して教科書を読めるようになった。次第に自信が持て、三学期が終わる頃には見聞きした事柄を文章にまとめたいと思ったりもした。
 考えると、職場での会話や“文章”のやりとりは日常茶飯事である。上司からの指示や総務部からの連絡事項も日本語が媒体、従って“言葉”を上手に使える能力は、日頃から鍛えておく必要がある。社内は勿論だが、特に得意先との打ち合わせや交渉ごとは“言葉”を正しく使うことが第一義である。行き届いた言葉遣いは相手を信頼し尊重している“現われ”としても理解される。今思えば、母親の教えは単に“漢字”を覚えるだけのことではなかった。先生や学友たちにしっかりした声で堂々と話せる勇気を与え、父親を亡くした悲しみや、弱虫で内気な自分から早く脱皮することを願った親心であったに違いない。
 「読む」講義は私が読んだふたつのエッセイを選び、講師と生徒が持ち回りで朗読する形式を採った。大きな声で読み上げ、不明な漢字に出会えばその場で辞書を引き、読後はお互いに所見を述べ合い、宿題として感想文を書くことにした。ひとつは「この国のけじめ」(文芸春秋、藤原正彦著)、もうひとつは「街道を行く」(司馬遼太郎著、“北海道の諸道”より)である。先の作品は日本人が失った伝統的美意識や倫理観に触れ、現代の世相に照らしながら様々な視点から厳しく現代を分析している。もうひとつの「北海道の諸道~札幌へ」は昭和三十年代に著者が札幌を訪れた折、封建社会を経験しない新しい北海道の異国的な風景を目の前に明治開拓期に思いを馳せ、指導者の一人であった薩摩人黒田清隆と彼が米国から招聘したトーマス・ケプロンについて、開拓計画とその背景(アメリカ南北戦争直後のフロンティアと農業技術の移入)に触れながら本州(封建制度下の共同体形成)と本道との根本的な相違を述べている。本文中・・本州を“本土”と呼ぶ由来について、古来、為政者は“お米の栽培”が可能な場所をもって“本土”と評したと言う文明史観、かつては北海道も沖縄も米作地帯でなかったから、異国視されたとの指摘は印象的であった。
 生徒にとって、これまで専門的な歴史や文明論に接する機会は少なかった様子だが、それよりも何よりも他人の前で書物を突き付けられ声を出して読むという行為そのものが、精神的な苦痛に耐えることを強いられ、そればかりか、読めない漢字に当れば自分の不勉強も露見し、恥じて怖気付くことは極く当たり前のことだった。新人も最初は一般の人や私の少年時代と同じであった。しかし、突っかかりながらも大きな声を出しその場で辞書を引き、何度も繰り返すうちに心が落ち着きすらすらと読めるようになった。例え間違って読んだとしても冷静になって読み直し、読めない“漢字”も動ずることなく自然体で振舞うことが出来るようになった。こうなるとしめたものである。彼等に自信が付いた様子が手に取るように解った時は私も嬉しかった。宿題の感想文も期待したよりも遥かに内容が的を射ており自分の意見も明確、文体も「5H1W」をレクチャーした甲斐あってスマートで正確、文脈(起承転結)も見事にまとまっていた。宇宙人みたいな新人だったが次第に親しみが沸いて来た。
 最終講座は「日本の近代史を学ぶ~明治維新と開拓史~」である。
 江戸幕府崩壊から現代までを、明治~大正~昭和~平成といった具合に、年表を並べ政治史の流れを追いかけても講座の目的は達成できない。高校時代に嫌と言うほど経験した単なる知識の羅列に過ぎないからである。この講座はあくまでも“人格”形成に必要な見識を身に付けること、即ち筋の通った歴史観を学ぶことにあるからだ。日本の近代史は明治国家にはじまるが、維新後の不平不満武士による内乱が明治10年(西南の役)まで続く。新政府により“欧化主義”の下で“富国強兵”政策が掲げられ、明治18年に最高行政機関である第一次伊藤内閣が設立(明治18)、明治23年に大日本国憲法が発布され、明治半ばで漸く近代国家の基盤が整う。しかしながら、これも束の間、明治27年に日清戦争が勃発、その後日露戦争(明治37)と続き、これ以降は戦争の歴史を辿る。“平和”と称される時代は、昭和20年敗戦後から現在までの僅か70年間に過ぎない。政治と経済が東京一局に集中する中央集権国家が辿った道は険しく、途方も無い数の戦死者を出すに至った。そればかりではない。この間、費やした膨大な戦費は江戸時代に培った“地方財政”よって賄われたことを忘れてはならない。“地方”とは、私たち縁者の“故郷”のことである。
 地方の開墾に力を注いだ政治が江戸幕府である。藩主(各大名)がリーダになり産業振興や人材育成(現代流に表現すれば“街づくり”である)を推進した。封建制の基盤である「士農工商」が意味するものは、“政治”を施行するのは武士の役目、大切な食料を生産する“農民”が武士に続く高い身分(第1次産業)、次は“農業”を支える技術(農機具、第2次産業)であり、これ等を支える商人、“両替商”や“蔵元”などが第三者(第3次産業)が取り立て、地方自治の下で経済・財政、教育が施された。ところが、明治国家は“富国強兵”を実現するため江戸時代に“藩政”で蓄えた地方財政に急場を求めた。“廃藩置県”以降は中央政府が“税制改革”の下で地方財源を調達して行く。中央と地方の格差はここに起因する。
 私は苫小牧で生まれ千歳で育った道産子、長年札幌で仕事をしているが以前から北海道は“官依存”であるとか“支店経済”であると、よく耳にした。だが、このような評価を下す人々は、きまって“中央”に住む人たちであり地元の人たちではなかった。しかし、我々言い分は当方にあった、主役は本州側ではなく地元に任せて貰いたい!活動する舞台は地元が作る!と言いたいのだった。私はこの教義を行う下調べとして、半藤一利著書による薩長史観に囚われない「幕末史」と「もうひとつの幕末史」、陰鬱な「昭和史」を読み終え、保坂正康著「最強軍団の悲劇」に目を通し、軍国主義が横行する中で戦場を知らない大本営が無謀な戦略を強いる記録に驚いた。地方自治と税制改革の歴史を追及した松元崇著「山縣有朋の挫折」、地方人口の減少を訴えた増田寛也著「地方消滅」などは、ますます深刻な課題を指摘している。昨年の夏、英北部スコットランドの独立を問う住民投票の結果で英国残留が決まった新聞記事を読み、“中央”と“地方”の隔たりを解消するためには地方の政治を育てることが先決であることを知った。これ等のことは、私自身がこの講座を通じて学んだことでもある。研修の原点に戻ると、新たな北海道(コミュニティ)を実現するためには、長年に渡りここに住み着いた人々が主役となり、自立する開発計画を立てる風土を醸成することにある。そこに、我々の技術集団が果たす役割があると考える。
 講義の最終を飾り、参加者全員の慰労?も兼ねて札幌市内の「銅像めぐり」と「北海道博物館」を見学した。「銅像めぐり」は、春日和の郊外を互いに語り合いながら歩き、大通り西11丁目に建つケプロン像と黒田清隆像、赤レンガ資料館での開拓史と歴代長官の写真、時計台資料館ではクラーク博士と農学校卒業生、二階の講堂では岩倉具視直筆の「演武場」、市役所1階フロアーに立つ島義勇像、午後からは地下鉄真駒内駅まで足を延ばし、エドウィン・ダンの記念館と立像を訪れた。また、後日は「開拓の村見学」を企画した。大通り西11丁目から地下鉄で新札幌駅に行き、そこから北海道博物館まではバスに乗った。現地ではボランティア活動の方に案内して頂き、市街地群、漁村群など見たところで残念ながら時間切れとなり、残る山村群と農村群は「紅葉が綺麗な秋に来て下さい」とボランティアの方から奨められ、後に楽しみを残して帰って来た。帰りのバスに揺られながら私は“新人社員研修は来年も続けよう!”とこころに誓った。折しもこの日は、桜が満開であった。(終わり)