第23話 吹雪の中で

2016.03.01, 月曜の朝

~2016.03.01(月)~

 昨夜から全道に渡って記録的な猛吹雪に見舞われた。今年の冬(札幌圏)は雪が少ないからもう直ぐ春が来ると仲間の顔がほころび安心していた矢先だったが、北国の冬はそう甘くはないようだ。遅れたバスを待っていると、二人の高校生が楽しそうに話しながら傍を通り過ぎるのを見掛け、ふとクラス会のことを思い出した。この二人の弾んだ会話から察すると卒業を目前に控えたクラスメイト・・遠い昔の自分と親友K君を思い出し懐かしい姿が蘇った。昨年、秋も深まった頃、卒業して初めて開かれた高校時代のクラス会に出席、仲間と青春時代を語るうちに“自分はいつの間にか老人になった”と痛感、知らず知らずのうちに“歳月”は行き過ぎていた・・再会の喜びとは裏腹に心の何処かにポツンと小さな穴が空いたような空しい気がして来た、同席したK君も同じことを呟くのを耳にした。果たして“歳月”とは過ぎ去った時間を拾い集め、老人がもの想いに耽ることなのだろうか・・この時、私は釈然としなかった。
やがて猛吹雪の中からバスが現れた。このバスが走る道は小学生の頃にビー玉遊びで親しんだ商店街、学友と一緒に高校へ通った通学路である。見慣れた街中を眺めているうちに私にとって“歳月”とはいったい何か・・クラス会の折に取り付かれた空虚な気分に戻った。紛れもなく私の“歳月”はこの“通勤生活”にある・・晴天であろうが、吹雪であろうが、大雨や大嵐であろうが、少しもめげず一筋に通い続けて来たこの平凡な生活こそが“我が人生”!吹雪の中からもう一人の自分が叫ぶ声が聞こえて来た。
毎朝、決まった時刻に自宅前からバスに乗る。いつの頃か定かではないが、朝の乗客はいつも私一人、顔なじみになった運転手さんに“おはよう”と挨拶する、ここから私の一日がはじまる、即ち私の歳月(=生活)の原点がここに在る。千歳駅に着くや否や札幌・小樽行き電車(JR千歳線)に乗り込み、札幌駅では地下鉄南北線に乗り換える。通勤客と観光客で混乱する地下街を素早く通り抜けると改札口が見え、その向こうは大通り公園まで地下道が続いている。その大通り公園駅で今度は東西線に乗り継ぐ、目指すは、また、ひとつ先の地下鉄西11丁目駅、そこには険しい階段が待っている。乗客ともみ合いながら下車してこの階段を登り詰めると目の前が開け石山通りに出て、冷たい風に晒されると漸く一息付くことが出来る、これが私の通勤事情である。帰りは、もちろんこの逆コースを辿るが、帰宅時間は必ずしも定期とは言えない。就職したばかりの頃は、自宅からバスターミナルが近かったので千歳と札幌間をバスで往復したこともあった。但し、この頃はまだ飲み友達が現われなかったので帰宅時間もほぼ定時であった。こうした通勤を二十代前半から今日まで約50年近く繰り返して来た。隣人には一見単調な日々に見えるかも知れないが、実はそう順調ではなかった。二十代から三十代前半までは転勤と出向、東京への長期出向など勤務先が変わる中で恋愛と結婚、新婚生活は東京だった。やがて息子三人が誕生し生活も安定したがそれも束の間、三十代後半になって転機が訪れた。二度も勤務先を換えた挙句に会社を設立、母を亡くしたのは四十代後半を過ぎていた。五十代は子供らの進学や就職など巣立つお手伝いに追われ、彼等の結婚と孫の誕生・・など、その折々の中で私なりの喜・悲劇に見舞われながらも何とか無事にここまで辿り着くことが出来た。“歳月”とは大げさに言えば以上の如く“人生航路”を時間軸で捉えたものかも知れない。
しかしながら、私にはもうひとつ別な“歳月”が存在するように思えてならない。昭和四十二年(二十二歳)、私は東京の大学を卒業すると郷里の千歳(在住)に戻った。出来ればこのまま東京に残り何処でも良いから就職したいと願ったが、当時は理工学部や工学部に就職先が殺到した時代、その上に学生運動などに熱を上げた“出来の悪い”卒業生などの就職は困難を極めた、残された道は母親が待つ郷里に帰る他はなかったのである。東京オリンピック(昭和三十九年)を契機に高度経済成長時代へ突入、東京は賑わっていたが地方は相変わらずの就職難、予期した通りに郷里ではアルバイトすら見付からなかった。学生運動で心身共に疲れていたこともあったが、大卒と言う妙なプライドが捨て切れず読書に耽り青臭い文章を書きながら、幼い頃に竹スキーで滑った神社山や父と魚釣りに出掛けた千歳川のほとりを散歩し、何ひとつ宛もなく、退屈な自分を持て余し隣人の厳しい目も気にせず、ぶらぶらと気ままに過していた。しかし、母は小言ひとつ溢さなかった。女手ひとつで大切に育てた一人息子、将来を期して東京の大学まで卒業させたまではよかったが、その先で見事に期待が裏切られたのだから彼女自身の苦悩は計り知れなく、親戚筋から浴びる非難にじっと耐えていたに違いなかった。
ある日、私に内緒で母が知人に頼んで置いた就職先が札幌で見付かった。ところが、先方から届いた「企業案内」を見て私も母も頭の中が真っ白になった。業務内容はコンピュターソフトウエア開発と情報センター運用と記され、五年ほど前に創立したばかりの今で言うところの“IT”の先駆け企業だったのである。“技術”や“機械”などまったく無知・無縁の私には想像も付かず、途方に暮れていると早速母から“仏壇の間”に呼び出された。幼い頃より叱られる時はきまってこの場所に呼び出される。先祖の写真がずらりと並んで薄気味悪く線香の匂いがぷんぷんと鼻に付く中、仏壇の前に座らされると「トシさん!何でもやってみなさい・・駄目な時は、男らしく諦めたらどうですか!」母が先祖の位牌を背に大声を放った。私を相手にと言うよりも天に向かって声を張り上げているような仕草だった。だが、妙に声が震えている。先祖の写真を見上げ手を合わせる母の姿をよく見ると、その眼に微かに光るものが浮んでいる。“萱場家に要らぬ後継者を育てた愚か者”と自分を戒め、嫁として母親として先祖に申し訳ないと亡き父に詫びている姿だった。かくの如く健気な母親を粗末にするとは何事か!この親不孝者!と真から反省した私は、「やってやろうじゃないか!」と腹を決めた。否、“居直った”と言う方がより正確かも知れない。この時、天に向かって母が放ったこのひと言が“雲を掴むような作家の道”を私に断念させたのである。これより千歳と札幌間を往復する生活がはじまったが、この時の一大決心が忘れられない、“何でもやってみなさい”この言葉がその後の人生の支えになった。“歳月”とは、人生そのものを一刀両断に裁く“一瞬”もあり、魂が宿った“言葉”が籠もった“時の流れ”を言うのであろう・・吹雪の中で亡き母のことを思い出していた。到着時間は大幅に遅れたが無事に札幌駅に着いた。構内に設置されたテレビの前に立つと、吹雪は明朝まで続くと報じていた。吹雪は収まらないが、亡き母から “何でもやってみなさい”と言われたような気がして、私の空しい気分は何処かに吹っ飛んで消えていた。(終わり)