第2話 鳩笛

2018.02.01, 近頃のこと

~2018.02.01(木)~

 新年早々に知人のN氏が主催する講演会に出席するため上京した。講演会が終わり講師を労う懇親会の席で久しぶりにN氏から歯切れの良い医療・福祉・介護政策論を聞き、相変わらず辛口で意気盛んな論旨にすっかり煽られ、新年の挨拶もそこそこにグラスを重ねるうちに何時の間にか酔いが廻った。出張先で気が緩むのはいつもの悪い癖、翌朝、反省と共に酔いを覚まそうと定宿(ホテル)の近くにあるレストランに立ち寄った。当店は品川駅高輪口の傍にあるが、レストランとは名ばかりで田舎の“食堂”と言ったイメージが強く札幌でもよく見掛ける変哲のない洋食店である。近年、品川駅は東海道新幹線が停まり、羽田空港行きの私鉄京急線が開通したことから構内は旅行客と通勤客で大混雑、駅周辺には高層ビルが立ち並び近代的なオフュス街に急変した。
 にもかかわらず、賑やかな雑踏の中でこのお店だけがひっそりと静まり如何にも時代に取り残された姿を露にしている。うらぶれた様子は、昔、「時代屋の女房」(夏目雅子主演)という映画に登場した主人公(渡瀬恒彦)が営む「骨董品屋」と同じく、馴染めない都会への反発や妙に人懐っこいくせに何処か孤独な佇まいは、私のような田舎者の好奇心を捉えて離さない。殊に、このお店のメニューで朝食セットに添えてあるスクランブルエッグは、香ばしいバターの匂いがぷんぷんして黄身と白身が蕩ける半熟の舌さわりは格別である。絶妙な塩加減が口の中で広がって行く風味は、亡き母が七輪の弱火で蒸かした土鍋の「玉子焼き」によく似ており思わず恋しくなる。然るに私は以前から酔い覚ましの朝食はこの店に限ると決め、“時には古き良き時代に思いを馳せる”とでも言うのか、ささやかなノスタルジアに浸りながら出張先の疲れを癒すことにしている。
 この朝、店先に立つと何とは無しにいつもと違う気配が漂っていた。ドアを開けるとプ~ンと塗料の匂いが鼻を突き、眼の前に新品の白壁と木製の床が広がった。正面には洒落たモネの風景画が飾られパソコンの如き最新型のレジスターが置いてあり、一瞬店を間違えたかな?と疑うほどの豹変ぶり、奥を覗くと観葉植物の向こう側はテラスであろうか・・ガラス窓が燦燦と日差しを浴び如何にも心地よさそうだ。古くとも品格を残した分厚い樫のテーブルや木彫りの花で飾った背凭れの椅子などは何処にも見当たらず、スマートに波打つカウンターが続くばかり、こうした思いがけない光景に言葉を失った。“少しでも留守するとこの有様!・・間髪入れず姿を変えるのが都会の流儀・・”大消費都市の凄まじい激変ぶりを目の当りにしてど肝を抜かれ思わず立ちすくんでしまった。そう言えば、高校を卒業して間もなく私が板橋に住む叔母を頼って上京した折に“これから行く東京は生き馬の目を抜く所だよ!”と心配そうに励ましてくれた母の言葉を思い出した。将に“生き馬の目を抜く”とはこのことだ・・、ところが、その驚きも束の間、直ぐに見覚えのある店員さんが笑顔を作って奥から現われたのである。
 眼と眼が合い少々救われた気持ちになったが、わざと不機嫌な顔を装い「お店・・すっかり変わりましたね」と皮肉を言って仕舞った。すると、「お久しぶりですね・・でも、お好みの朝食は以前と同様に用意出来ますよ」と親切に変わらぬメニューを差し出し、私を労わるようにグラスに並々と冷水を注いでくれた。数ヶ月前にも同じ対応を受けたことを思い出し、いつも二日酔いを見抜かれている上に皮肉や愚痴ばかり言っている愚かな自分が恥ずかしくなった。だが、“なるほど・・建物は変わっても料理と人情は昔のままだ!”と思い直すと沈んだ気分も幾分かは晴れ、ならば、“旅先の恥は掻き捨て!”と一気に冷水を飲み干した。やがて、あのスイートな匂いを放つスクランブルエッグがテーブルの上に登場した。そっとそのひと匙を口に含むと、あの懐かしい風味が全身に染み渡り、今にも割烹着姿の母が「玉子焼き」を持って天国から現われるような錯覚に囚われた。いったい”歳月“とは何だ?と素朴な疑問が湧いて来た・・ひとつは東京のように常に変化に追い詰められ余白の無い”急な流れ“に違いなく、もうひとつはいつまでも変わらぬ人情や料理の味の如き”溜まり場“といったところか・・など様々な思いが脳裏を霞めた。
 今、私はこの両極の狭間で母の「玉子焼き」を愉しんでいる・・苦笑しながら甘美な時間に酔いしれていた。すると、私のテーブルにも暖かい日差しが射し込み次第に酔いが醒めて行くのが解った。ふと、顔を上げて廻りを見渡すと眩しく光るカウンターの奥にさり気無く置かれた小さな玩具に目が留まった。オヤ!近づいてよく見ると見覚えのある東北地方の民芸品である”鳩笛“、手に取るとあの時と同じ重さが伝わって来た。
 あの時と同じように白地の紙粘土で作られたこの細工品は愛らしく私の掌に納まり、白い胸を膨らませ緑と赤の縞模様に染められた柔らかな羽毛に包まれている。赤い飾りを着けた首をすっと持ち上げ、その先で見開いた丸い目が涼しそうに遠くを眺めている。尾羽の先に唇を当てそっと息を吹き込むと丸い嘴からボウーボウーと山鳩の鳴き声が聞えた。無垢で無邪気で御伽噺にでも登場する可憐な姿、それは紛れもなくタイムカプセルから飛び出したあの時の鳩笛、次から次へと在りし日の出来事が蘇って来た。立ちすくんだ私の眼の前に、あの日の少年が現われ生き生きとした声で話し掛けて来たのである。
 幼い頃、私たち家族は苫小牧の家で叔母・叔父夫婦と共に暮らしていた。叔母は母の一番下の妹、叔父は父の無二の弟で奇妙な縁から兄弟、姉妹がそれぞれに結ばれ、戦時中のこと故に急場を凌ごうとひとつ屋根の下で仲良く助け合っていた。実子がない叔父夫婦は代わりに私を可愛がり、幼い私も父母同然の如く慕って甘える日々を送っていた。生まれた時から食が細く、身体もひ弱で性格も内気だったので何かにつけて直ぐ泣く癖があったらしく、泣き出すときまって叔母が宥め役に廻った。泣く子の気を引こうと叔母が左右の掌を丸めて貝殻のように合わせ、その小さな隙間からふうふうと息を吹き込むとボウーボウーという音がした。
 聞き憶えのある音色を耳にした私ははっと我に返り、その場で泣くのを止め急いで叔母の顔を窺がうと、ニッコリと笑顔を返して来た。理由は、ある日、叔父と一緒に遠足に出掛けた折に樽前山の森影から山鳩の声が聞えるので必死に追い駆けた勇ましい冒険の思い出があったからだ。叔母はその一部始終を叔父から聞いていたのであろう・・掌から聞こえる音色は正しく樽前山の麓で聞いた山鳩の鳴き声、叔母がその声を真似ている!と直ぐに察した私は叔父との痛快な冒険を頭に浮かべると、それまでの鬱陶しい気分がまるで嘘のように晴れたのだった。泣き止むと叔母は相槌を打つように頷き、私の頭を幾度も撫でながら「それで・・山鳩は見付かったの?」と優しく尋ねて来た。涙を拭いながら「いいえ」と答えると、「鳴き声だけでも聞けてよかったわね」と褒めてくれた。赤子を包む優しい響きを持つこの言葉をいつまでも忘れることはなかった。そして、時々この言葉が恋しくなると私は誰か彼れ構わずヤツ当りしたい衝動に駆られ泣きじゃくっては母を困らせた。
それは戦後間もない頃のことであった。
 父は戦地(シベリヤ)で腎臓結核に取り付かれ無事に帰還したが日々の療養を余儀なくされ、生活費に追われる母は夫の看病しながら小さな食堂を営み昼夜問わず忙しく働き続けていた。但し、母の苦労はこればかりではなかった。彼女が十八歳の時、同時に両親を失い(病死)三人の妹と二人の弟を抱えた姉の立場にある母は、親代わりとなって家族の生計を立てねばならぬ悲運に見舞われた。この逆境に立ち向かい大勢の肉親を無事に育て上げた経緯からすると、叔母にとっての母は両親同然の何ものにも代え難い存在であった。幼い頃から母の苦労を知る叔母が甥の私に特別な愛情を抱き実子の如く育ててくれたのは自然の成り行きだったかも知れない。また、この事情を知る叔父も病床にある父の代わりにと常に私の遊び相手になってくれたことも、深い家族愛に同情したからであろう。ところが、私が五歳の時(昭和二十五年)、“新しい商売をはじめる”と母が言い出し一家は千歳に移ることになった。母が取り組んだ商売とは、翌年(昭和二十六年)に勃発する朝鮮動乱で千歳に駐留する米兵相手のビヤホールであった。
別れる日、見送りに来た叔母が苫小牧駅のホームで突然に私を抱き締め泣き出した。耳元ですすり泣く声を聞き私は山鳩の鳴き声を思い起こして、もし自分の掌で鳴らすことが出来れば叔母の涙を止められる・・と思うと胸が詰まって何も言えなくなった。千歳に移った後も時々母に連れられ苫小牧の家を訪ねたが、叔母が吹く山鳩の鳴き声を聞くことはなく、別れた時の辛い想いだけが何時までも心の隅で燻り続けた。そして、いつの間にか叔母を悲しい目に合わせた母を恨むようになって仕舞った。
 その後、千歳は米兵が約二万人にも膨れ上がり母の商売は思惑通り繁盛の絶頂期を迎えた。だが、小学校三年生(昭和二十九年)の夏、母の看病も空しく父は早来町の病院で帰らぬ人となった。隣人から腎臓病には離尿作用を促す“西瓜”がよく効く教わった母は必死で街中の果物屋からこの瑞々しい果物を買い集めた。葬儀が終わり用事を思い出して物置小屋に行くと母が溜めて置いた西瓜が山のように積まれてあるのを偶然に見付け、母の深い悲しみを知った私はその場で一日中泣き通した。翌朝、母に内緒でその西瓜を乳母車に積み込み千歳川の岸辺まで運び、母が作った洗濯場からひとつ、ひとつ数え“天国の父に届け!”と祈り波立つ清流に向かって投げ込んだ。西瓜は母の悲しみを川面に止めるが如く浮んでは消え、消えては浮びながら遠く波間を越えやがて見えなくなった。眺めているうちに胸に仕舞って有った母への憎悪は何処かへ吹き飛び、愚かな自分に気が付き腹を立てた。その後も母は襲い掛かる逆境に立ち向かい黙々と働き続け“歳月”は何事も無かったように過ぎて行った。
 私が中学校に入学した頃(昭和三十三年)には既に朝鮮動乱は落ち着き、千歳から米兵が撤退すると母は直ぐに店を閉じた。卒業間近かに迫った修学旅行は十和田湖遊覧と弘前(藤原三代)の歴史巡りであった。“餞別”と言って母から貰った千円札二枚、前日に苫小牧の叔母から郵送で届いた千円札一枚を大切に仕舞い込み意気揚々と出掛けた。生まれて初めて津軽海峡を渡り本州へと向かうこの旅は、今思えば私の青春時代のはじまりであった。宿泊ホテルに着くと真っ先に売店に行き、甘いものが大好物の母へお土産に“津軽飴”を買い求めた。琥珀色の水飴を収めた赤い缶のラベルに描かれた“ねぶた祭り”の武者人形を見て、その勇猛果敢な姿が気丈夫な母によく似ているのでますます気に入った。ところが、店先に並ぶ数多くの土産品を見ているうちにひと際色鮮やかで愛らしい玩具を見付けると、その場で釘付けになってしまった。
手に取るとそれは紙粘土で作られた民芸品の”鳩笛であった。そっと吹くと驚いたことにボウーボウーと音がする・・叔母が吹いたあの時のあの音色とまったく同じだ!樽前山で叔父と一緒に追い駆けた山鳩の鳴き声だ!私の胸は潰れそうになった。幾度も繰り返し吹くうちに駅のホームで別れた時の情景が蘇って来る、山鳩の白くて豊な胸が貝殻の形をした叔母の掌に見えて来た。この夜、“鳩笛”を手元に置き十和田湖が美しく映る絵葉書に“生まれてはじめて海を渡り、鳩笛を見付けました”と記し叔母宛に送った。旅行から帰り、早速に苫小牧の家を尋ねて叔母にこの土産品を渡すと微かな笑みを浮かべ「山鳩の鳴き声・・憶えていたのだね・・」と呟くと唇を噛み締め、その場を立って奥の箪笥に仕舞い込んだ。この時、和服の袖を摘み目頭を押さえて背を向けた悲しげな仕草を私は見逃さなかった。
 この叔母が“産みの母”だと知ったのは、高校へ入学した翌年の夏休みであった。母と叔父との間で起きた“争いごと”がきっかけとなったが、おそらくは私の進路のことで二人の意見が食い違い、それまで父親代わりだった叔父が心配する余り“積年の胸のうち”を吐き出した違いなかった。叔父は兄に当る父に想像を絶するほどの遠慮が有ったのだろうが、母は叔父とは一切会わなかった。もちろん私と叔母も絶縁になったまま時は過ぎた。
高校を卒業した直後(昭和三十八年春)、板橋(東京)に住む叔母(父方の従姉)に預けられ一年発起で大学を目指すことになった。母から何も言われなかったが大学在学中も叔父と叔母には一度も手紙を出すことはなかった。私は無事に卒業すると迷うこと無く千歳に帰り、一年後には母の奨めで札幌の企業に就職した。この間、叔母には何も告げず、少年時代のように気楽に苫小牧の家に行くことは出来なかった。
 母は明治四十三年に下新川(富山県)で生まれ、大正初期に一家が長沼(北海道)に移住し営農に従事する中で叔母が生まれた(大正八年)。二人は約十歳の年齢差があったが、先に叔母が逝き(平成五年没、享年七十五)、後を追うように母が亡くなった(平成七年没、享年八十五)。叔母の通夜、遠慮して躊躇っている私をじっと睨み付け「早く行っておやり!」と母が怒鳴った、その険しい顔は苫小牧駅のホームで見た叔母のそれと少しも変わらず、深い憂いに満ちた暗く切ない表情は今でも忘れることはない。大学時代、学園紛争に巻き込まれた私を叱り飛ばし、母親には内緒だと言って官憲から庇ってくれた板橋の叔母も既に無く(平成二十年没、享年八十三)、現在はご子息が継いだお店が彼女の足跡を物語っている。
 去る平成三十年一月、誕生日を終えた私は数え七十三歳になった。この年齢になって”青春時代“に刻み込まれた“鳩笛”に出張先の東京で再会するとは夢にも思わなかった。・・“歳月”とは悲しみの“溜まり場”であろうか・・それとも、移り行く世を写す“走馬灯”の如きものか・・胸が痛んでならない。いずれにしても、大河の如く私の喜びと悲しみのすべてを飲み込み、歳月”は今も黙して語らない・・何と残酷であろうか・・。しかしながら、今後は上京する度に期待出来る楽しみが出来た。それは何時までも変わらぬ芳しいスクランブルエッグと、・・もうひとつは、何時までも愛らしい“鳩笛”であることだけは確かである。芳しい「玉子焼き」と優しい音色の「鳩笛」は懐かしい二人の母の面影であればこそ、いつまでも“歳月”が私を癒してくれるのであろう。(終)