第3話 雛祭り

2018.02.28, 近頃のこと

~2018.02.28(水)~

 先日、二年ぶりに家内と一緒に雛人形を飾った。
 昨年はふとした油断から家内が絨毯に躓いて左足首を骨折、約二ヶ月の入院を強いられたので残念ながら“雛祭り”は見送りとなった。三年前のこと、長年続けているリハビリ(在宅)のお陰で元気になった家内がはにかむように「お雛さんを飾りましょうよ」と呟いた。意外な言葉に振り返ると、彼女を照らす窓の屋根に雨垂れが連なりその一粒一粒が春の日差しを浴び眩しく輝いていた。家内もこの光体に目が留まり、今年も“雛祭り”がやって来ると思ったに違いなく、我が家にも漸く春が訪れると思うと胸が熱くなった。約十五年前、脳溢血で倒れてから我が家は厳しい季節が長く続いていたが、日本ハムが優勝した頃にリハビリの先生から“応援に札幌ドームに出掛けてみたらどうですか”と奨められて漸く元気を取り戻した。閉じ篭ってばかりいた家内が思い切って行動に出たことが“自信”を付ける足がかりとなった。以来、私たちは度々札幌ドームに出掛けるようになり、本人が自らパソコンで駐車場と入場券を手配すると隣人や息子たちを誘ってくれる。近年では念願の沖縄キャンプの視察も実現、度々訪ねる“栗山ファーム”(自宅)では偶然に栗山監督と顔を合わせることもあった。今年は“アリゾナキャンプ見学”を検討したが、視察ツアーの窓口に問い合わせたところ付き添い人が二人も必要とのことで断念せざるを得なかった。しかし、ここは持ち前の粘り強さを発揮して“来年こそ実現しよう!”と言っている。
 余談になるが、家内の幼い頃は休日になると決まって父親に連れられ円山球場で高校野球を観戦するのが日課となり野球が大好きになったと聞いたことがある。その思い出話をリハビリの先生と交わすうちに“札幌ドーム観戦”がリハビリの新しいメニューに組み込まれたのだろう、後日、先生も日ハムの大ファンだと聞きますます心強く思った。予想通り、その後のリハビリは楽しい“日ハム戦”が話題の中心、お陰でどんな厳しいストレッチにも耐えられるようになり、日々見違えるほどの回復ぶりに周囲は驚かされた。

 そして、もうひとつ、家内に元気を与えてくれたのがこの雛人形たちである。彼女が嫁ぐ日に実家から持参したのだが、あいにく結婚当時の私は東京勤務だったので家財道具はすべて私の実家、即ち母の家に預けたままになってしまった。従って、私が雛人形のことを知ったのは、約三年間の東京勤務を終えて私達夫婦が母と同居した時だった。ある日、納戸に仕舞ってある古びた箱に目が留まったので家内に尋ねると「記憶は曖昧だけれど私が生まれた年か・・その翌年、父が買ってくれた雛人形よ・・」としみじみと答え遠くに思いを馳せていた。家内は昭和二十一年一月生まれだから敗戦直後の混乱期である、その上に父親が公務員であることも考えると雛人形を買えるほどの余裕など家には無かったはず故に「貧しい中でよく揃えてくれたね」と再び尋ねると、「一人娘だから、きっと無理したのよ」と微笑んだ。
 しかし・・当時は物騒な世の中だから普通のお店で売っているはずがない・・父親はいったい何処で誰から如何にして手に入れたのだろうか・・そして、この雛たちはどの様な運命を辿ったのだろうか・・等々、私の脳裏に過ぎったものは雛人形の生まれた時代や関わった人々など様々な「時代の光と影」であった。ぼんやりしている私に渇を入れようと家内が「雛祭りが来る度に小さい頃からずっと飾っていたのよ・・結婚するまではね!」と皮肉るように念を押して苦笑した。
 彼女の話によれば馴染めない母(姑)への遠慮が先立ち雛人形を飾ることを諦めたが“萱場の人”に成り切ったと確信し一瞬の姿を見たような気がしたと同時に、母の晩年の風格によく似て来たと思えてならなかった。

 二月初旬、恐る恐る雛の眠る部屋へと向い、狭い階段を上り奥の襖を開けると納戸が待っていた。久しく仕舞い込んだままになった大きなダンボールを取り出すと、木箱の中から丁寧に畳まれた木製の雛壇と赤い毛氈が出て来た。三段構えの雛壇をテーブルの上で組み立てると、続いて古い新聞紙に包まれた小箱が三つ四つ、そのひとつを開けると柔らかな藁と白い布に包まれた内裏様と三人官女が静かに眠っていた。布をそっと取り除くと高貴な男雛と優美な女雛が長い眠りから覚めたと言わばかりに奥ゆかしい微笑みを投げ掛けて来た。私は何か別世界へ旅立つ扉を開いている錯覚に囚われていた。続いて弓矢を携えた二人の武者が勇ましい姿を見せると雛壇に全員が勢揃い、どの雛たちも凛々しい表情で静かに納まった。後段に重厚な牛車を備える、雛たちの周りには“菱餅”や“あられ”を添える器や膳を運ぶ懸盤が並ぶ、いずれも職人の手を尽くした華麗な絵柄の塗り物、それぞれの豪華絢爛たる有様はさながらに平安朝を垣間見る思いがする。そして、最後に、赤や黄、青色などのクレヨンで描いた可愛い雛人形が箱の陰からひょっこりと顔を出した。番外編とでも言うべきこの人形たちは、“雛祭り”が迫ったある日こと、幼い三人の息子たちが仲良く集まり、意のままに描いた雛たちを画用紙から切り抜いた人形、たぶん、母親が雛壇を飾りながらこの兄弟たちに雛を写生するようにと奨めたのであろう・・母子の健気な姿が目に浮んで来た。久しぶりに我家に“雛祭り”が戻り、一瞬、家内の目に光るものが過ぎった。
雛たちの顔立ちは、男雛も女雛も、そして三人官女も白い肌に瓜実顔、つんと清ました鉤鼻と切れ長の目、薄く紅を指したおちょぼ口などは歌麿が描く美人画に登場する艶やかな女性によく似ているが、自由奔放で官能的な容姿を有する現代の人形とは一線を画しているようにも思える。戦時中は激しく降り掛かる矢玉を潜り抜け眉間に傷ひとつ負うこともなく、敗戦後の騒乱期には泥に塗れることもなく、弓矢や調度品など、ひとつとして失うこともなく・・粛々と雛たちを守り通した“主人”とはいったいどんな人物であったろうか、複雑な思いに駆られて雛壇を眺めていた。
 雛たちは何も語ることはないが、その気高き姿から察するにさぞかし由緒正しき家に生まれたであろうに・・その家も焼かれ、激しい戦火を潜り抜けながら如何にして安堵の場所を見つけたのか・・主人と同様にこの雛たちも悲惨な運命を辿ったに違いなかった。にもかかわらず“喜怒哀楽”を深い心の裡に秘め、何者にも媚びず、何事にも屈することのない逞しき“誇り”を鼓舞している。昭和を生き抜いた我々もまた生まれ育った故郷を離れ、あるいは家族とも別れ、幾多の艱難辛苦を乗り越えて来た。すべての悲しみを心の奥に封じ込め、与えられた運命に順ずる日本人の伝統的美意識を秘めたこの雛たちは“昭和”という時代を象徴しているようにも思える。

 人形を飾る風習は、古来正月七日(人日、七草)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)九月九日(重陽)などの五節句や、その年の新穀を祝う八朔(陰暦八月一日、田実)などに共通しているが、いずれも子供の健やかな成長を祈る日本人の素朴な心情に端を発している。「源氏物語」では子供が遊ぶ人形を「ひうな」と称することからその起源はおそらく平安期であろう。寛永三年(一六二六年)に三代将軍徳川家光が上洛した際、宮中に献上した黄金白銀を雛遊の料金に当てられたという記録が残っており、雛壇を設け賑々しく飾るようになったのは江戸時代初期と推測される。更に庶民が経済力を握る江戸中期から明治期に掛けては現代と同じく七~八段という豪華な飾り棚も登場した。五年前、知人が岡山県高梁を案内してくれた折、城下の外れにある商店街で出会った優雅な“雛壇”は、正しく江戸・明治時代の遺産として荘厳としか言いようのない眩い光景であった。ずらりと並ぶ老舗の店先、一軒一軒がご先祖様から受け継いだ雛人形と雛壇を華やかに飾り祝うこの風習は、将に現代人が失った原風景とも言うべきものであった。貴族~武士~町人と言う新しい時代の担い手たちが雛を愛でる家訓を累代に伝えたこの史実を観ると、中世から近世、近代に至る歴史の連鎖が具体的に読み取れる“現場”は、正しく「地方の文化」にあった。

 過日、近く元号が変わると聞いて“昭和”がますます遠くなる心境に襲われた。母は明治、父は大正、私は昭和(終戦)に生まれ、祖父を含めると戊辰戦争、日清・日露戦争、第一次、第二次世界大戦を潜り抜けた日本の近代化は戦争の歴史でもあった。“平成”が終わるに至っても安全保障や北方領土、慰安婦問題など太平洋戦争の後始末は尽きない。大政奉還より150周年と言うが依然として「薩長史観」から脱却できないままに、この中央集権国家は久しく「地方の時代」と叫びつつ尚も空しい時を棒に振っている。
 この騒然たる中、戦争体験者の“生の声”が、もう直ぐ聞けなくなるという現実に危惧を抱くのは私ばかりではない。新しい元号を迎えると聞いて、心の何処かで誰しもが少なからず“不安”を憶えるとすれば、それは“昭和”と言う「受難の時代」を決して忘れてはならないと願う一心からである。“元号”をもって時代の“行く末”を俯瞰する日本人の心情を問えば、新しい“元号”は“平和”の象徴であらねばならない。この“昭和”の雛たちはその願いを必死になって私たちに訴えているように思えてならないのである。(終)