第4話 春の足音

2018.04.10, 近頃のこと

~2018.04.10(火)~

 先日、我が家でクンシランが咲いた。
 亡き母(平成七年没、享年八十五)が大切に育て遺して逝った鉢植えである。この 花々が主人を無くして間もない頃、心なしか青々とした茎や葉が色褪せ、萎れかけたので“早く元気になれ”と檄を飛ばし、一度だけ大きな鉢に植え替えたことがある。以来、葉も茎も根も土も元のまま残し、場所も以前と同じ仏壇部屋の日が当る窓際に置いてある。立派に育った四つの鉢が母や先祖の遺影を見守るかのようにズラリと並び、今年は三つの鉢が見事に芽を膨らませ花を咲かせた。天国で無事に暮らす母から“鶴の一声”により、挙って咲いた気がしない訳でもないが、萌黄色の蕾や橙色の花弁を見ていると彼の地から“元気に暮らせよ”と励まされているような気がしてならない。生前の母は将にこのクンシランの如く凛として誇り高く、晩年は意気揚々と日々を送った。
 母は庭の手入れや畑仕事が大好きだった。“春分の日”には物置小屋から自転車を取り出し脇目も振らずに長年世話を続ける自慢の畑と庭へ駆け付けた。未だ雪が残る寒い朝でも泥んこ道でも何のその、悴んだ手でハンドルを握り颯爽とペダルを踏む姿は町内でも話題になり“働き者のオツさん”と言われたぐらいである。この日を境に、朝は暗いうちから梅干の握り飯を作り、昼間は涼しい草むらで昼寝を楽しみ、休息は桜の木の陰に腰掛けながらとっぷりと陽が暮れるまで畑仕事に没頭した。
 時々、私と家内が心配して迎えに行くと、何食わぬ顔で「明日の朝も早いぞ!」と呟き、入れ歯をカタカタ鳴らし小さな身体をひょいと自転車のサドルに乗せた。家路を急ぐぞ!と言わんばかりに、如何にも強気な姿勢を見せ付け右足でペダルを踏み込む、その頑固で一途な後姿を眺めながら先を越された私達夫婦は唖然とするばかり、とても敵うものではなかった。
 昭和二十四年晩秋、苫小牧に住む母〈四十歳の頃〉は千歳在住の知人から受け取った手紙の中で、近いうちに大勢の米兵が駐留することを知ると僅かな蓄財を投じて千歳に移り、いち早く米兵相手の飲食店経営に乗り出すという豪腕の持ち主だった。翌年夏、朝鮮動乱が勃発し千歳は米軍基地に豹変、母が予想した以上にお店〈愛称ミッキー〉が繁盛したお陰で土地を買い求め畑を耕すことが出来た。雨の日も風の日も、まるで何かにとりつかれたみたいに通い続けたこの畑には余程の愛着があったのだろう、苦労を重ねた母の孤独な生き様と明治生まれの心意気を伝えている。「働きさえすればどんな道でも開ける」の言葉が母の言い癖であった。
 最初、母が知人からこの土地を紹介された時に幼い私も一緒だった記憶があるが、この時の悲しい経緯はいつまでも忘れることは出来ない。当時、お店をはじめたばかりの我が家は大きな木造の二階建て、一階は家族と女性達が寝食を共にする住居、二階はビヤホールといった具合で同じ建物であった。大勢の若い女性達と一緒に暮らし夜も昼も騒々しく、深夜になっても酔って怒鳴り狂う米兵の声が後を絶たず、しかも、重い病気の父が床に伏していたので私は言葉では言い尽くせぬ怒りと不満を抱いていた。
 そこへ、目の前に広がるこの空地を見た母が「トシさん、この土地を何に使おうか?」と尋ねて来たので、私はこの時とばかりに「静かに勉強できる家が欲しい!」「父が気の毒だ!」「米兵も学校も大嫌いだ!」「友達も要らない!早く苫小牧へ帰りたい」など、言いたい放題ぶちまけた。執拗に迫る私の言い分に母は何ら口を挟まず、黙って川淵を見詰めていたが、やがて正面に立ち「それは・・もっと貯金を増やさないと出来ないことだね」と険しい顔つきで答えた。
 私の願いは敢え無く砕かれ暗い孤独の闇へと突き落されてしまった。必死の“願い”を受け入れてくれない母が憎く、余りに父が気の毒であった。そればかりか、友達が出来ない自分までもが惨めに思えて来て、これもそれもすべての原因は米兵だ!と決め込んだ。“何時の日か、きっと仕返しする”と心に誓い、私は半ばやけくそになり急斜面の川淵へ降りると石を拾い清流に向かって思い切り放り投げた。ポチャンという音と共に私の願いも空しく川底に沈んで消え、母を憎むはじまりとなった。
 今、この記憶を辿ると、私の言い過ぎた“申し立て”は母の心を深く傷付けたのかも知れなかった。私の辛い気持ちを察した上で、息子の願いを叶えたくとも叶えられない母親が自分自身を責めたのではあるまいか・・と疑いたくなるような母の悲しい表情を思い出すからだ。この時、土手の上から「一緒に・・」という母の声が確かに聞えて来たのである。一瞬「一緒に・・苫小牧へ帰ろう」と願いが通じたと思った。だが、肝心の声が途中で川を渡る風に消されて仕舞い、母の真意は定かではないので慌てて土手をよじ登り母に問い直した。すると「せめて・・一緒に野菜を作る畑で我慢して・・」と詫びるような口調と共に母は両手で私の肩を強く握った。再び期待を裏切られた私はその両手を払い除けようとした。ところが、驚いたことに母の指先は固い皮膚で覆われ掌はガサガサに荒れ無言の悲鳴を上げていた。途端に私の脳裏に夜も昼も汗だくで働く母の姿が浮び、これ以上惨めな母を責める勇気など起きるはずもなく、その場で黙り込むばかりであった。その後、時は流れ過ぎたが、この畑が他人の手に渡ることもなく、新しい家屋が建つこともなかった。それは、私への謝意を込めた母の意地であったのかも知れない。母は沈黙を守り続け畑仕事に従事した。
 土地は住宅街の一角にあったので水道を引くことは簡単だった。だが、地質が火山灰であるので大型トラックで数台分もの黒土を加えねばならず、また、千歳川に面している故に風当りが強く、二~三年を費やし周囲にカラ松を植えて防風林を備えなければならなかった。漸く周囲の整備が終わると次は風雨を凌ぎ、苗や農産物、農機具などを保管する物置小屋が必要になり、それ等をこつこつと母が自らの手で建てると共に屋根のペンキ塗りや改修する大工仕事なども他人の手を借りることはなかった。お店を続けながらこうして男性でも顔負けの作業を平気でこなす行動力は周囲の誰にも負けず、私の眼には優しい母親のイメージからは遥かに遠く、父親よりも逞しく、何者も越え難い高みの存在に映っていた。
 毎年、秋が来ると町内の畳屋から古くて再生出来ない畳を譲り受け、細かく解した藁を小屋の陰に山のように積んで冬支度を始める。霜がふる頃を見計らいその藁を畑の隅々に敷き締めると積もる雪の中で発酵し、春になると立派な堆肥が出来上がった。あるいは、日頃から行き付けの八百屋や魚屋にお願いして生ゴミを貰い、所々に掘った小さな穴に大根の葉や白菜の切れ端、魚の腸や骨などを埋め「生ゴミは宝!」と言って“土作り”に励み、日常の水遣りや草採りなどは一日たりとも欠かしたことはなく、自宅から徒歩15分程の距離を普段は自転車で通い、苗や収穫物などを運ぶ時には苫小牧の家から持って来た荷車を利用した。収穫期になると我が家の軒下に大根や白菜、胡瓜やトマトなどの作物を沢山並べることが自慢であり、近隣の人々に「いつもお世話になります」とお礼を添えて渡した。
 飲食店を廃業(昭和三十五年)した後、母は再び手腕を発揮して自衛官相手の借家業に転じたが、この間、如何に忙しくとも農作業だけは休まず、晩年は裏玄関の横にある小さな空き地に温室を備え、部屋の窓際にも棚を拵えて植木鉢を並べ、サボテンや観葉植物など様々な植物を育て、クンシランもその中のひとつであった。
 先日、春分の日を迎え仏壇に花を供えて母を偲び、久しぶりに我が家から畑に向かう土手道を歩いた。千歳市役所を左に折れ、正面に教会が見える橋を渡って千歳川の辺りに敷かれた遊歩道を行くと、やがて畑の跡が見えて来た。深い川淵は灌漑工事で整備され、土手は舗装された近代的な遊歩道に変わっている。昔はススキの茂みに隠れた細い道が川辺を廻る殺風景な場所であった。この土手を1キロメートルほど下流に向かって歩くと鉄橋が待ち受けている。千歳駅から発した線路がこの厳つい橋を渡ると一直線に苫小牧へと延び、恋しい叔母に会える鍵を握る唯一“希望の目印”であった。そして、もう一度、私達家族が“時間”と“場所”を苫小牧に戻す事が出来る魔法の扉、少なくとも幼い私はそう信じて疑わなかった。
 小学校に入学した頃、街中は米兵の争いごとが絶えなく、新しい生活に馴染めない私は苫小牧に帰りたい・・別れて来た叔母に会いたい・・との一心から、ある“秘密”を実行しようとその機会を狙っていた。“企て”は、苫小牧駅で叔母と別れはじめて千歳駅に着く直前に車窓から見えた鉄橋で思い付いた。“この橋を渡れば一人でも迷わず苫小牧へ行ける”、その為には街中から千歳駅に通じる道を探すのが先決、駅から線路に沿ってこの足で歩けば必ずや鉄橋に辿り着き、この川を渡れば苫小牧へは一直線で行ける・・という想像が私を虜にした。新しい家に落ち着くと、直ちに見知らぬ街中を彷徨いながら千歳駅に至る道筋を探しはじめた。繁華街や商店街を避ける裏通り、人目の付かぬ細い道、次は目印になる酒屋や果物屋、レコード店や映画館、十字路など、ひとつひとつ丁寧に確かめてはノートに地図を記し頭の中に刻み、実行する日をじっと待っていた。
 ある日のこと、“新橋”(清水町)近くの川岸で釣りをしていると、ススキの隙間から細い道が見え隠れしながら土手を廻り、くねくねと川下へと続く景色に出会った。すっぽりと草むらに隠れ人目に付かない格好の逃げ道、しかも川沿いを下る様子から鉄橋に続いているはずだと直感、早速、その足で土手道を行くと予想した通り遥か遠くにあの鉄橋が見えて、思わず「アッツ」と叫んだ。最早迷うことはなかった、胸がすっきり覚悟は決まった。
翌朝、母には学校へ行くと見せて千歳橋を渡ると直ぐに橋下を潜り抜け、そのまま新橋まで引き返した。幸いなことに二~三人の釣り人以外に人影に出会うことはなく、そっとススキの茂みに紛れて土手道に立った。川下から冷たい風が襲って来たが、負けずに遥か遠くの鉄橋を目指し、汗にまみれ運動靴が磨り減るぐらい必死に歩き続けた。ところが、漸く辿り着くとそこにはお手伝いの幸ちゃんが待ち受けていた。ショックが電流の如く全身に走り、その場で幸ちゃんを睨み付けたまま呆然と立ち尽くした。

 秘密の計画が簡単に見破られた悔しさで胸が一杯、私は泣く泣く家に連れ戻されるといった憂き目に出会ったのである。
 帰り道、居たたまれない気持ちをぶつけようと、どうして私の計画に気が付いたのか?幸ちゃんに尋ねた。彼女は日頃から私の世話で手を焼き母に叱られてばかり居たので、なかなか打ち明けてはくれなかった。そこで、「明日からの登校は拒否しない」「放課後は道草しない」「米兵と喧嘩しない」「母の悪口を言わない」など口から出任せに約束を交わそうと誘導すると、彼女はひとつひとつ頷きながら渋々と話しはじめたのである。幸ちゃんの話によれば、日頃から私を見張り、この日も家を出た時からこっそりと後を付けていた。千歳橋の下を潜り抜けた辺りから鉄橋に向かうと見抜いたので別な道を自転車で先回りし、鉄橋で待ち伏せていたとのことであった。ところが、続けて打ち明けてくれた話によれば「トシさんは必ず千歳川の鉄橋を渡ろうとする」と既に母が予知しており、「その時は幸ちゃんの手で必ず連れ戻してちょうだい」と念を押されたとのこと。母はいつの間にか鉄橋のことを気付いていたのであった。びっくり仰天、即座に「何時、母に頼まれたの?」と聞き正すと、お手伝いに来たその夜だと意外な答えが返って来た。母はずっと以前から私の企みを見抜いていたことになる。“お手伝い”とは母の方便に過ぎず、幸ちゃんの本当の仕事は私の行動を監視することだとはじめて知った。
 大切な秘密が簡単に暴かれた悔しさもよりも、偽りのない胸の裡をずっと以前から母に見抜かれ、同時に“秘密”も悟られていた。何よりもそのことを知らなかった愚かな自分に腹を立て、幸ちゃんに“裏切られた”という恨めしい気持ちをどうしても拭い去ることが出来なかった。母への憎しみは募るばかり、何かに付けて周りに反抗し、隙を捕らえては米兵を相手に喧嘩を売ろうとした。その度に叔母が恋しくなり苫小牧へ帰りたい気持ちに駆られた。次第に登校を拒み、道草を重ねるうちにとうとう“札付き”の少年になってしまった。母はこうした私の気持ちや行動を知りながら何も叱らず、見て見ぬ振りを続ける中でお店の仕事に全力を注いだ。お手伝いの幸ちゃんが母と私の板挟みになり大変な苦労を重ねていたのもこの頃である。この土手に立つと、そうした幼い頃の懐かしい思い出が蘇って来る。
 今は既に防風林は取り除かれ、畑は整地されて幼稚園の公園に隣接する空き地に変わったが、所々に黒い土が見え当時の面影を残している。母が農作業の合間に身体を寄せ一服した桜の木も払われ、その切り株が枯れ草の中から僅かに顔を出し私を迎えてくれた。近づいてよく見ると、周囲には鮮やかな萌黄色を装った蕗の薹が点々と芽吹いている。母は長い冬と厳しい仕事に耐えながらこの燃えるように芽吹く春を待っていたのであろうか。春分の日の朝を待って、私が散々に噛み付いたこの土手に駆け付け、あの日の出来事を思い浮かべては鉄橋が見える風景を眺め独りで春の足音を聞いていた。私よりもずっと孤独な身を畑仕事に没頭することで癒していたのであろうか、私よりもずっと苫小牧に帰りたいと願い、私よりもずっと叔母を愛し続けていた。そして、“すまない”とひと言、私と交わす穏かな日々を待ち望んでいた。黒い土と桜の切り株がその真実を伝え、如何なる逆境でも前向きで“気丈夫”であった母の人生を物語っている。
 毎年、萌黄色の芽を膨らませ橙色の花弁を着けるクンシランも母の心の裡を知っている。その証拠は悲しみも歓びも何処かに秘めたまま、ますます葉を茂らせ根を深く鉢底に張り巡らし逞しく成長する清清しい姿にある。母が私達に注いだ深い愛情そのものである。いつまでも母の面影を追いつつ、私もこの川辺に立ち誰よりも先に春の足音を聞く余生を送りたいと願っている。〈終〉