第5話 五月、我が家の庭

2018.05.07, 近頃のこと

~2018.05.07(月)~

 例年に比べて連休期間が長かったゴールデンウィークは、久しぶりに自宅でのんびりと過すことが出来た。五月初旬のある朝、ふと、寝室の窓から庭先を覗くと赤いボタンが朝日を浴びて咲いているのが目に留まった。何時の間に咲いたのであろうか・・・ひとつ・・ふたつと数えると十二の大輪がそよそよと涼しげに揺れている。長閑な風景に誘われ庭に出て見ると、そのひとつが朝の挨拶でも交わすようにさり気無く美麗な容姿を私に傾けた。赤子の掌によく似ている小さな葉の上に丸い朝露が光っている・・“なるほど・・今朝、咲いたばかりだね!”と思わず声を掛けると清々しい風が通り過ぎて行った。花々が一斉に私の方に向き直り、挙って「朝の歌」でも口ずさむように優雅にゆらゆらと細い首を揺すぶった。・・花たちは言葉こそ口にしないが、色鮮やかに染まった花びら、可愛い蕾や青々と茂る葉、しなやかな枝、逞しい茎などを通じて様々な表情を持ち、人間のように手振りや身振りで自分の意志を私たちに伝えて来るものだ・・と母から聞いたことがあった。母の言う通り、このボタンも私と会話が出来ると、この年齢になってはじめて知る思いがした。母の手で大切に育てられたこの花は、失った“主人”から授かった愛情を今も忘れず持ち続け、私たち家族に優しく話し掛けて来る。五月、我が家の庭には懐かしい思い出がたくさん埋まっていることを改めて思った。
 生前、母は “清水町の庭”〈本人が名付けた〉で長い年月を費やしこのボタンとツツジだけは特別に手を掛けて育てた。庭は自宅〈東雲町1丁目〉から三丁ほど離れた清水町1丁目の千歳川の川沿いにこんもりと茂り、雨の日も風の日も自宅から自転車で通い続ける熱心な世話好きの主人をいつも待っていた。五月になると、この主人の愛情に報いるように、桜、藤、アジサイ、アヤメ、菖蒲、シャクナゲ、そしてボタンとツツジが一斉に咲き誇り、通行人をアッと言わせる色とりどりの見事な光景を繰り広げた。母は多くの知人から苗木を貰い受けるままに所構わず植え続け、何時の間にか庭一杯に溢れ終には本人ばかりか植木屋までも手に負えなくなってしまった。それでも懸命な世話を怠らず、道端で馴染みの知人に出会うと頂いた植木の自慢を挨拶代わりに交わし、また、知人も母の自慢話が聞きたくて度々我が家を訪れた。従って、主人を慕うように集まった草花には、ひとつ、ひとつそれぞれにひとつの物語を秘め、それも母の自慢話のひとつであった。
 本格的に庭作りをはじめたのは父が亡くなった〈昭和二十九年六月没、享年三十九〉年の秋からである。父は戦地で腎臓結核に取り付かれ無事に復員したが、自宅療養を余儀なくされた。時々、私を連れて川辺リで魚釣りや散歩するなどで時間を過して気を紛らわせていたが、肝心の母は店が忙しくて思うように看病が出来なかった。いつも歯痒く思っていたに違いなく、例えば、西瓜は離尿作用があり腎臓病によく効くと隣人から聞いた母は、初夏を待って町中の果物屋から西瓜を買占めた。隣人から“千歳から縞模様の果実が消えた”と冗談を言われるほど父の病状には目を離さず過敏で深刻だった。父が亡くなって間もなく、私は物置小屋から山のように積まれた西瓜を発見し母の深い悲しみをはじめて知った。父の死は母の期待を裏切り、その夏を越すことが出来なかった。普段の母は気丈夫な働き者で周囲に弱味を見せたことがないが、この時ばかりはやつれ顔で途方に暮れ、失意のどん底に追い込まれていたであろう。忘れられた西瓜は戸惑い苦悩しながら仕事を続ける母の心境を物語っていた。西瓜の季節か終わり秋を迎えた時、それまで畑を耕し野菜作りを楽しんでいた母が、突然「花を植えたい」と言い出した。決して他言しない母の辛い胸中を知る私は、やり場のない“淋しさ”を西瓜の代わりに今度は花で埋めようとしていると受け止めた。以前から畑に隣接する手ごろな空き地があったが、既に地主が住宅を立てる予定で準備が進められていた。その土地を母は無理を承知で地主と強引に掛け合い、高価な値で買い求めた。自分の手で庭土と肥料を入れ終わると私を前に「父さんが好きな花だ」と呟き庭の入り口近くにボタンとツツジを植えた。父の看護では西瓜集めに奔走、死後は故人が好んだ花を育て続けることで自分を振るい立たせた母の強く逞しい姿はいつまでも忘れることはなかった。以来、四季折々に咲く草花を仏壇に捧げお経を読む母の姿をしばしば見ることがあったが、唯一、安らぎのひと時であったのかも知れない。
 朝鮮動乱〈昭和二十五年〉を契機に、苫小牧から千歳に移り同年から昭和三十五年までの約十年間、錦町や清水町界隈で飲食店を営んで来た母にとって、同じ町内にあるこの庭には格別に“深い思い入れ”があったに違いない。父への供養や鎮魂はもちろんだが、私に対する“愛情の証”もそのひとつであった。当時、複雑な事情を知らない幼い私は、病弱な父を余所に、憎憎しい米兵を相手にお店に没頭する母を恨み、何かに付けて辛く当って反抗した。
 入学したばかりの小学校では平気で嘘を付いて遅刻、早退、ずる休みは評判の常習犯、道草と喧嘩は得意中の得意、お陰で母やお手伝いの幸ちゃんは担任の先生に呼ばれ厳しく注意を受けることも珍しくなかった。反省するどころか、乱暴者の“札付き”と呼ばれるようになり、家人や周囲からの忠告に背き、母には頑なに憎悪を抱いた。私の胸中を知る母は、何か小言や願いごとがあると幸ちゃんを通じて伝えて来たが、その度に“別な用事がある”と嘘でごまかし、草むしりや水遣り、施肥や虫避けなどの農作業は大嫌いだった。ある日曜日のこと、直接母から「一緒に畑を手伝って」と声を掛けられた。私は“今日こそ!”日頃の不満をぶちまけようと「肥やし臭い汚い仕事は米兵にやらせればいい」と面と向かい母を侮辱するようにののしった。すると、驚いたことに母は涼しい顔で「きっと、そのうちに米兵も畑も好きになるさ」と穏やかな口調で呟き「何たって・・私の大切な息子だものね」と珍しく怒鳴ることもなく苦笑を残しその場を繕い立ち去った。不思議なことに、いつも刺々しい私の胸に何か言い知れぬ温もりが輪のように幾重にも広がって行くのを憶えた。もしかすると、我が庭のボタンは今でもこの時の“温もり”と“苦笑”を憶えているかも知れない。
 もうひとつ、母は決して米兵相手の飲食店のすべてを肯定してはいなかったのであろう・・商売を長く続けた繁華街の片隅に自分の手で美しい花々を咲かせることが出来れば“目の保養”になると、迷惑を掛けた隣人への“お詫び”を含めた“お礼”の気持ちが込められていた気もする。ある日のこと、頬被りした母が粗末な野良着を纏いこの庭で地面を這って草取りをしていると、見知らぬ人から「綺麗なボタンとツツジですね、どなたの庭ですか?」と尋ねられた。すると、母は平気な顔で「私は植木屋に雇われた者ですのでよく存じません」と見事に白を切る姿を見せたことがある。遠くに去った通行人を見送りながら、とぼけ顔で「トシさん・・気持ちがいいね・・」と微笑んだ、その爽やかな母の笑顔が余りにも印象的、いつも機転の利いた相手とのやりとり、悪戯っぽくお茶目な笑みが何とも言えず満足そうで幸せそうに見え、母の本望はこの庭の花々にあることを私なりに理解することが出来た。亡くなる少し前、私を枕元に呼び「あの庭は私一代限り、直ぐに処分し相続の費用に当てて欲しい」と言い遺した。この時も、あの時と同じように満ち足りた幸せそうな笑顔を浮かべた。死期を迎えた母が生涯を通じて愛情を注いだこの庭の“行く末”について、約四十五年間に渡る千歳での暮らしのすべてを知る息子に“波乱万丈の生涯を静かに精算させるつもりだ”と悟った私は無言で頷き、込み上げる熱いものを押さえながら旅立つ人の手を固く握り返した。亡くなって間もなく(平成七年十月没、享年八十五)、この遺言に従い庭を売却した。だが、母を偲びせめて赤いボタンとツツジだけは手元に残こそうと思い、猫の舌ほどの狭い我が庭に植え“我慢して下さい”と言い置いた。その後、ツツジは昨年の春に枯れてしまったがボタンは無事に生き延びている。

 毎年五月になると赤いボタンは母と約束を交わした如く大輪の華麗な花を咲かせる。その姿はまるで母から“伝言”を預かったと言わんばかりに凛として清清しい。私の時計は毎日一秒一秒止まることなく刻み続けているが、母との思い出は止ったままである・・。七年前の五月、このボタンを眺めているうちに、ふと“赤一色だけでは寂しかろう”・・と思い立ち、傍に白いボタンの苗木を植えた。小枝を眺めながら、・・少年時代はあれだけ嫌った庭の手入れだが、今では草花を愛でる年齢になった・・これも母の言う通り、やはり、私は母の息子でよかった・・とつくづく思った。白いボタンの苗木は細くて弱々しく見えたが、二年ほど経ると枝々は逞しく広がり、ふたつ、みっつと小さな花が咲いた。息子がはじめて植えて育てた花が無事に咲いたのだから、天国の母はさぞかし喜ぶであろうと思うと気が晴れ晴れした。今年は赤よりも一週間ほど遅れたが、太く育った枝に七つの白い大輪を付けた。赤に比べるとまだまだ背丈は小さいが、枝々を左右に張り巡らし健気に成長を続けている。このまま育てば、いずれ赤と同じ数の大輪を咲かせるであろう。両者が会話を交わす光景を目に出来るのも決して夢ではない。「赤と白よ、共に頑張れ!」〈終〉