第20話 新入社員研修

2015.09.28, 月曜の朝

~2015.9.28(月)~

 毎年、新年度が始まる四月初旬から五月末までの約二ヶ月間、私が新入社員研修の講師を務めて来た。企業組織や上下関係を知らない新入社員たちの眼に“会長”という妙な肩書きを持つ私の言動や立ち振る舞いが、どの様に映るであろうか?想像も付かないままに講師を続けている。扱うテーマは前回よりも新しく、もっと研修プログラムを増やし期間も延ばす・・など、毎回、色々と頭に浮かぶが、大切なことは講義の主旨と目的だと思い同じ研修プログラムに徹している。この研修が終了すれば生徒はそれぞれの職場に配属され、現場では企業人としてのマナーを学び、様々な専門ノウハウと業務知識を身に付け、いずれは“優秀な技術者”として成長するであろう。“人を育てる”ことは想像以上に長い歳月を要する、だが、果たして短期間で終了するこの研修はどれほど役立つのか?不安を憶えながらも“期待”を抱きながら奮闘している。
 社員に求められる能力を問えば、日々の業務遂行能力は勿論のことだが、これとは別に部下から尊敬され、得意先からも信頼されるなど“厚い人望”が究極の課題である。その“人格”を習得するにはどうすればよいか!仕事に追われる現場で身に付くのか?望まれる教育の“場”はいったい何処なのか、“研修会”や“セミナー”にさえ参加していれば済むのか?この点を色々と考えると、我が社全体として社員一人一人が切磋琢磨するような“企業風土”が先決だと気が付いた。日々の仕事の中で自らの手で築かねばならない課題である。この研修を通して私がその先頭に立たねばならない・・今もそう思っている。“企業風土”こそが”人材“を育成する基盤!と信じて講義を続けている。現場を持たない私が出来る唯一の仕事!と自分に言い聞かせ、やり甲斐のある仕事だと誇りを持っている。様々な問題と取り組む勇気、的確な判断と強い意志で難題を解決して行く胆力、それを得る為には豊かな感性を引き出さねばならない、そのヒントを見出す糸口を探ることが私の役割である。今は“種を蒔く季節”と自問自答し、新人の魂を揺すぶる研修を!と念じ、“歴史”や“革命思想”、“人生観”など、あえて仕事と離れたテーマを取り上げ、生徒と先生が同じ土俵の上で学ぼうと、悪戦苦闘している。
 私の講座は3つに分かれる。導入部の教義は「期待される社員像」、「文章を読み、書くこと」、最終講義は「日本の近代史を学ぶ~明治維新と開拓史」である。「期待される社員像」は(1)HIT技研イズム、(2)よりよく生きる(3)期待される社員像の三課程、紙面の都合で各項の内容については詳しく触れないが、弊社の設立理念に触れ、地域社会に役立つ技術集団を目指し、新しい地域コミュニティを形成するお手伝いを担い、専門技術の先取りと普及に努めることを説く。その為には社員一人一人が優秀な技術者であると同時に、幅広い視野と高い社会性を持ち品位ある“人格”を備えてなければならないとする。私の講義が倫理性や道徳性を重視するので生徒たちには古めかしい教訓のような印象を与えるかも知れない。例えば明治維新の先駆者である吉田松陰が残した文章の中に見える「至誠にして動かざれば未だこれ非ざるなり」を解釈したり、会津藩の「什の戒め」などを紹介すると部屋の中がシーンとなる。どの言葉も古臭く理解し難い内容だが、実はこのタイミングが理解を深める“鍵”となる。各人の解釈を素直に受け止めながら当時の社会風土を重ねる、それは、同時に失った日本人の伝統的な思考を探ることになるからである。
 そこで私は日本の近代史に触れる。明治維新以来この約170年間、この底流には合理主義と競争原理が近代人の思考や行動の規範(マニュアル)となって来た。“理屈”に合わないことは“非”であり“否”である、弱肉強食の世界は“勝者”が正義、“敗者”は悪業と決め付ける。しかしながら、江戸時代に奨励された“武士道”は必ずしもそうではなかった。“源平合戦”や“国取り物”にも美学や美意識が優先した。例えば、江戸時代の会津藩の“戒め”を例に採れば“目上の者に背いてはならず、敬わねばならない”“うそを付いてはならない”“弱い者をいじめてはならない”“卑怯な行為をしてはならい”とある。”ならぬものはならぬ“と具体的な説明も無く頭越に禁じ、その理由はそれぞれ受け取る側の感性と想像力に任せた。言い換えれば”もし、掟を守らなかった何が災いするか“を容易に想像できる時代、即ち、封建制の強固な社会秩序があった。この鋭い感性と想像性は既に現代日本人が何処かに置き忘れてしまった倫理観である。昨今の新聞やテレビなどで報道される企業不祥事や残酷な殺人事件などを見ると、今の日本は大切な社会秩序を失ったかに思えて来る世相である。
 次の講座「読む、書く」は私の経験によるものである。小学校三年生になったばかりの夏、父親が病死して私に怖いものがなくなった。放課後は羽が生えたように遊び呆け日が暮れるまで家に戻らなかった。泥まみれで家の玄関先に立つと、心配していた母が渋い顔をして待ち構えていた。靴を脱ぐ暇もなく、「勉強は、読み、書き、そろばん!」と母に怒鳴られ、背中の鞄から国語の教科書を取り上げられた。母は荒々しく教科書をめくり、素早く指で止めたページを指差し「ここ、読んでみなさい!」と険しい目で睨む。私はそのページを恐る恐る声を出して読みはじめるが、途中、声が細く途切れ途切れになると「もっと大きく、もう一度」と叱られ、何度も繰り返した。赤鬼のような母の顔を目の前に私はぶるぶると震えていた。お仕置きはそればかりではなかった。漢字が読めなくなると“○印を付けなさい!”と厳しく注意されるだけで、教えてくれたりすることはなかった。鉛筆でその箇所に○印を付け、部屋に戻って辞書を引いてから母に報告する約束だったからである。“辞書”を引くことは憶えたが、母への恨みは深まるばかりだった。この夏、父を亡くした少年の悲しみは余程辛らかったに違いなく、母への“反抗”は年が明けて新学期が始まるまで続いたように記憶している。新学期を迎えて、新しい教室と担任の先生も変わったので少年の心境も少しは改まったのかも知れないが、それまでのウジウジした気持ちは嘘のように収まり、国語の時間には声を出して教科書を読めるようになった。次第に自信が持て、三学期が終わる頃には見聞きした事柄を文章にまとめたいと思ったりもした。
 考えると、職場での会話や“文章”のやりとりは日常茶飯事である。上司からの指示や総務部からの連絡事項も日本語が媒体、従って“言葉”を上手に使える能力は、日頃から鍛えておく必要がある。社内は勿論だが、特に得意先との打ち合わせや交渉ごとは“言葉”を正しく使うことが第一義である。行き届いた言葉遣いは相手を信頼し尊重している“現われ”としても理解される。今思えば、母親の教えは単に“漢字”を覚えるだけのことではなかった。先生や学友たちにしっかりした声で堂々と話せる勇気を与え、父親を亡くした悲しみや、弱虫で内気な自分から早く脱皮することを願った親心であったに違いない。
 「読む」講義は私が読んだふたつのエッセイを選び、講師と生徒が持ち回りで朗読する形式を採った。大きな声で読み上げ、不明な漢字に出会えばその場で辞書を引き、読後はお互いに所見を述べ合い、宿題として感想文を書くことにした。ひとつは「この国のけじめ」(文芸春秋、藤原正彦著)、もうひとつは「街道を行く」(司馬遼太郎著、“北海道の諸道”より)である。先の作品は日本人が失った伝統的美意識や倫理観に触れ、現代の世相に照らしながら様々な視点から厳しく現代を分析している。もうひとつの「北海道の諸道~札幌へ」は昭和三十年代に著者が札幌を訪れた折、封建社会を経験しない新しい北海道の異国的な風景を目の前に明治開拓期に思いを馳せ、指導者の一人であった薩摩人黒田清隆と彼が米国から招聘したトーマス・ケプロンについて、開拓計画とその背景(アメリカ南北戦争直後のフロンティアと農業技術の移入)に触れながら本州(封建制度下の共同体形成)と本道との根本的な相違を述べている。本文中・・本州を“本土”と呼ぶ由来について、古来、為政者は“お米の栽培”が可能な場所をもって“本土”と評したと言う文明史観、かつては北海道も沖縄も米作地帯でなかったから、異国視されたとの指摘は印象的であった。
 生徒にとって、これまで専門的な歴史や文明論に接する機会は少なかった様子だが、それよりも何よりも他人の前で書物を突き付けられ声を出して読むという行為そのものが、精神的な苦痛に耐えることを強いられ、そればかりか、読めない漢字に当れば自分の不勉強も露見し、恥じて怖気付くことは極く当たり前のことだった。新人も最初は一般の人や私の少年時代と同じであった。しかし、突っかかりながらも大きな声を出しその場で辞書を引き、何度も繰り返すうちに心が落ち着きすらすらと読めるようになった。例え間違って読んだとしても冷静になって読み直し、読めない“漢字”も動ずることなく自然体で振舞うことが出来るようになった。こうなるとしめたものである。彼等に自信が付いた様子が手に取るように解った時は私も嬉しかった。宿題の感想文も期待したよりも遥かに内容が的を射ており自分の意見も明確、文体も「5H1W」をレクチャーした甲斐あってスマートで正確、文脈(起承転結)も見事にまとまっていた。宇宙人みたいな新人だったが次第に親しみが沸いて来た。
 最終講座は「日本の近代史を学ぶ~明治維新と開拓史~」である。
 江戸幕府崩壊から現代までを、明治~大正~昭和~平成といった具合に、年表を並べ政治史の流れを追いかけても講座の目的は達成できない。高校時代に嫌と言うほど経験した単なる知識の羅列に過ぎないからである。この講座はあくまでも“人格”形成に必要な見識を身に付けること、即ち筋の通った歴史観を学ぶことにあるからだ。日本の近代史は明治国家にはじまるが、維新後の不平不満武士による内乱が明治10年(西南の役)まで続く。新政府により“欧化主義”の下で“富国強兵”政策が掲げられ、明治18年に最高行政機関である第一次伊藤内閣が設立(明治18)、明治23年に大日本国憲法が発布され、明治半ばで漸く近代国家の基盤が整う。しかしながら、これも束の間、明治27年に日清戦争が勃発、その後日露戦争(明治37)と続き、これ以降は戦争の歴史を辿る。“平和”と称される時代は、昭和20年敗戦後から現在までの僅か70年間に過ぎない。政治と経済が東京一局に集中する中央集権国家が辿った道は険しく、途方も無い数の戦死者を出すに至った。そればかりではない。この間、費やした膨大な戦費は江戸時代に培った“地方財政”よって賄われたことを忘れてはならない。“地方”とは、私たち縁者の“故郷”のことである。
 地方の開墾に力を注いだ政治が江戸幕府である。藩主(各大名)がリーダになり産業振興や人材育成(現代流に表現すれば“街づくり”である)を推進した。封建制の基盤である「士農工商」が意味するものは、“政治”を施行するのは武士の役目、大切な食料を生産する“農民”が武士に続く高い身分(第1次産業)、次は“農業”を支える技術(農機具、第2次産業)であり、これ等を支える商人、“両替商”や“蔵元”などが第三者(第3次産業)が取り立て、地方自治の下で経済・財政、教育が施された。ところが、明治国家は“富国強兵”を実現するため江戸時代に“藩政”で蓄えた地方財政に急場を求めた。“廃藩置県”以降は中央政府が“税制改革”の下で地方財源を調達して行く。中央と地方の格差はここに起因する。
 私は苫小牧で生まれ千歳で育った道産子、長年札幌で仕事をしているが以前から北海道は“官依存”であるとか“支店経済”であると、よく耳にした。だが、このような評価を下す人々は、きまって“中央”に住む人たちであり地元の人たちではなかった。しかし、我々言い分は当方にあった、主役は本州側ではなく地元に任せて貰いたい!活動する舞台は地元が作る!と言いたいのだった。私はこの教義を行う下調べとして、半藤一利著書による薩長史観に囚われない「幕末史」と「もうひとつの幕末史」、陰鬱な「昭和史」を読み終え、保坂正康著「最強軍団の悲劇」に目を通し、軍国主義が横行する中で戦場を知らない大本営が無謀な戦略を強いる記録に驚いた。地方自治と税制改革の歴史を追及した松元崇著「山縣有朋の挫折」、地方人口の減少を訴えた増田寛也著「地方消滅」などは、ますます深刻な課題を指摘している。昨年の夏、英北部スコットランドの独立を問う住民投票の結果で英国残留が決まった新聞記事を読み、“中央”と“地方”の隔たりを解消するためには地方の政治を育てることが先決であることを知った。これ等のことは、私自身がこの講座を通じて学んだことでもある。研修の原点に戻ると、新たな北海道(コミュニティ)を実現するためには、長年に渡りここに住み着いた人々が主役となり、自立する開発計画を立てる風土を醸成することにある。そこに、我々の技術集団が果たす役割があると考える。
 講義の最終を飾り、参加者全員の慰労?も兼ねて札幌市内の「銅像めぐり」と「北海道博物館」を見学した。「銅像めぐり」は、春日和の郊外を互いに語り合いながら歩き、大通り西11丁目に建つケプロン像と黒田清隆像、赤レンガ資料館での開拓史と歴代長官の写真、時計台資料館ではクラーク博士と農学校卒業生、二階の講堂では岩倉具視直筆の「演武場」、市役所1階フロアーに立つ島義勇像、午後からは地下鉄真駒内駅まで足を延ばし、エドウィン・ダンの記念館と立像を訪れた。また、後日は「開拓の村見学」を企画した。大通り西11丁目から地下鉄で新札幌駅に行き、そこから北海道博物館まではバスに乗った。現地ではボランティア活動の方に案内して頂き、市街地群、漁村群など見たところで残念ながら時間切れとなり、残る山村群と農村群は「紅葉が綺麗な秋に来て下さい」とボランティアの方から奨められ、後に楽しみを残して帰って来た。帰りのバスに揺られながら私は“新人社員研修は来年も続けよう!”とこころに誓った。折しもこの日は、桜が満開であった。(終わり)