第15話 (六)白蛇伝~「コムカラ峠」外伝~

2014.05.26, 月曜の朝, コムカラ峠

~2014.05.26(月)~

 “洗い場“の突端から竿を投げ入れるとウグイやカジカが釣れ、時にはマスやヤマメが掛かることもあった。川の深みにはヤツメウナギが群がり、春になると無数の稚魚たちが岸辺で這い廻っていた。親子共に黒々と不気味な群れを作るこの魚たちは、海に棲むウツボと同じく長い尾をくねらせヌルヌルして掴み所がない。その上、相手の隙を見ると鋭い吸盤で襲い掛かり、手や足などに吸い付いたら何が起きても離さないのがこの荒くれ者の本姓、獰猛さは尋常でなく米兵のように街の誰からも恐れられた。また、”八つの目を持つ吸血鬼“とも呼ばれ世間からの嫌われ者でもあった。だが、母だけは違って干したヤツメを炭火で炙り、これを砕いて食すると疲れ目によく効くと唱え、この得体の知れない怪魚を妙に好んで口にした。米兵相手に商売をはじめた母らしくどこまでも強気だったのであろう。ヤツメを獲るには腰まで浸かって急流に耐え、水中眼鏡で川底を覗きながらヤスで突き刺す荒業が必要で下級生には至難の業。上級生でも勇気の在るほんの数人の顔馴染みの者だけが許されたので彼らは下級生の”憧れの的“だった。他には時々カラス貝も獲れたがドジョウの髭みたいな愛嬌もなくヤマメのような美しく光る模様を持たないのであまり人気はなかった。いずれにしても、夏になると下級生はこの”洗い場“を中心に上流と下流を幾度も行き交いながら水遊びに熱中し、疲れると中州で昼寝して時間の過ぎるのを忘れた。当時、水着は高価で買えず、仲間は素っ裸同然だが、恥ずかしい・・などと言い出す者は誰一人としていなかった。
 長万部生まれの浜育ちだった父が釣りを教えてくれたのもこの”洗い場“が出来たお陰である。父は戦地で腎臓病に取り付かれ止む無く帰国、私たち家族は叔母夫婦と共に苫小牧の家で暮らしていた。様々な事情が重なって母が千歳で商売をはじめると言い出し、父は反対したが”生活の糧を得るため“と釘を刺されて嫌々ながら同意した。だが、いつまでも納得が行かず千歳に移っても何かと母に辛く当った。だが、気丈夫で働き者の母はそうした父の身勝手な態度を何ら咎めず、開店したばかりの忙しい日々の合間を縫い幾日も費やして家人たちと洗濯場を作り上げた。父は欺瞞に満ちた目で母の執念とも言うべきこの事態を見て見ぬ振りしていた。何時の日にか父は必ず爆発し”苫小牧に帰る“と言い出す・・と妙な期待を抱きながら私はじっと陰からこの様子を伺っていた。
 ところが、悪戦苦闘の末に洗濯場を完成させた家人たちが母を囲み歓喜の声を挙げた時、父はまるで人が変わったみたいに”よくやった、よくやった“と叫びながら母に駆け寄った。しかもみんなが見ている前でオイオイと声を挙げて泣き崩れたのである。この時、私よりも余程母を心配していたのだ!と父に諭されたような思いがして、つい貰い泣きしたことを今も覚えている。今更苫小牧に帰るなど”甘い!“と自分を諌めて反省した。この日から父は部屋に閉じ籠る暮らしを止めて、気分の良い日を選んでは川ベリを散歩するようになった。”洗い場“の尖端に立ち清流をじっと見詰め「ここに立つと身体が波に洗われたように清清しくなる」と口癖のように呟いた。毎日続く微熱が少しばかり治まるのか?しばしの間は心身共に癒されていたのであろう。釣りや泳ぎを教えてくれたのも父がこうした余裕を持てた時期だった。”洗い場“という新しい遊び場を与えられた私は夢中になって遊んでいるうちにいつの間にか夏が過ぎようとしていた。
 ある日曜日の夕暮れ時、釣り竿を担いで川べりを歩いていると雪ちゃんが“洗い場”でしゃがみ込んでいた。うな垂れて浅瀬の白い波を眺めているかと思うと、ふと頭を擡げ夕焼け空を見上げるように遥か下流の方角に首を伸ばして何かもの思いに耽っている、下流では南空知の農村地帯が広がりやがて石狩川と合流しているので、ひょっとすると彼女はこの川沿いの果てにある農家の出身だったのかも知れず・・白い波を追いかけるうちに故郷を思い出したかも知れなかった。辺りに人影は見当たらず、一緒に過ごした支笏湖以来で私たちは久しぶりに二人きりになった。「そこで釣りをしてもいいですか」と声を掛けると、少し間を置いた彼女が「いいわよ」とさりげなく答えた。よそよそしい態度を隠し切れず何か言いたげな気配が伝わって来た。彼女の正面に立つと、私をじっと睨み着け「下駄屋で会ったこと、何故!口にしないのよ」と不満げに尋ねて来た。想像した通り母に告げ口をしたと誤解し怒っている・・だが、下駄屋での出来事は母や幸ちゃんにはもちろん、誰にも打ち明けずに守り続けて来た。返事に困っていると「いつまでも黙っているのなら私から話してあげるわ」と居直った。直ぐに口惜しそうな顔付きに変わると一言一言を思い起こすように噛み締めながらことの一部始終を話し出した。
 去年の夏、支笏湖でみんなと一緒に過ごした直ぐ後でこれを最後に母や家人たちと別れようと決心した。迷った挙句“田舎に帰ります”と母に嘘を付きお店を辞めると常連だったジミーという米兵と一緒に暮らしはじめた。彼女が支笏湖で浮かない様子を私に見せたのはこうした事情からだった。ジミーとはお店で知り合って直ぐに好意を抱き母の目を盗んで付き合うようになったとのこと、二人の棲家はオンリーたちが集まって住む郊外の目立たぬ一軒屋だった。常日頃から母は家人たちに対して米兵相手の恋愛や交際は一切許さず、見付けると遠慮なく店を辞めさせた。米兵と一緒に暮らすと言い出せば“とんでもない罰当たりだ”と我が子のように叱り着け、聞き訳がなければ“責任が持てない”と両親に手紙を出して直ちに実家に帰すといった厳しい処置をためらいもなく実行した。そればかりではなく、時には基地の門番を訪れ米兵の名前を告げてその上司を呼び出し“我が娘をどうしてくれる”と噛み付いて掛け合った。このような件は、それまで一・二度ではなかったので世間でもよく知られていた。内気な雪ちゃんはそうした母の温情が絡む厳しい仕置きを恐れたために嘘を付いたのである。もちろん世間にも内緒、何よりも両親だけには秘密にしておこうと願った末のことだった。
 ジミーとの暮らしは実家で暮らしていた時とは大違いで着るものや食べものにはまったく不自由なく、そればかりか彼が基地の中で買って来る商品には食べたこともないハムやソーセージ、コカ・コーラやソフトクリーム、チョコレートやキャンディーなど食べ尽くせなかった。生活費はお店の給料よりもずっと高額だから贅沢が出来、僅かな仕送りで両親も喜んでくれた。そのうちに片言で英語が話せるようになりジミーと会話するのが何よりも楽しかった・・と彼女の話は尽きなかった。だが、この良いこと尽くめの話を自慢する雪ちゃんの様子が何故かぎこちなく沈んで見え、聞きながら私は悲しい気持ちに駆られた。やはり、私の脳裏にはあの寒い朝の出来事が刻まれていたのである。
 ジミーの好きな“山羊の乳”を買い求め下駄屋へ通っていると、老婆と母が知人関係であることを知った。老婆にはお店で働いていた自分を隠し通そうと知らぬ振りを決め込んだが、皮肉にもあの寒い朝が訪れて私と出会った。雪ちゃんはてっきり母に告げ口されると私を恨み、同時に老婆に見破られたと疑念を抱いた。いずれは両親に伝わり街にも居られなくなると不安に追われると、これまで平穏だった日々が一変して嘘の塊を背負って暮らさねばならなかった。とは言え、思いも寄らぬ満ち足りた生活に踏ん切りをつけるには余程の勇気と覚悟が必要、逃げ道を求めながら“最後まで後悔してはならない”と自分に言い訳しながら一人淋しく暮らしていた。
 ところが、ある日のこと、この辛い生活にまたもや追い討ちを掛けるような厳しい試練が襲い掛かって来た。ジミーが“演習に行く”と言って家を出たきり“帰らぬ人”となったのである。何かの事情で本国に帰ったのか?戦地で命を落としたのか?あるいは深い傷を負って入院したのか、本人からは何も連絡がないばかりか噂すら聞くこともなく、行方が分からないままに途方に暮れる毎日が過ぎて行った。この街に頼る人もいない雪ちゃんは思い余って下駄屋の老婆に相談した。すると、優しい老婆は我が娘の如く心配してくれ“それならばこの間のことは何も無かったことにして!”と言って助け舟を出してくれ、故郷の両親にも内緒で再びお店で働けるよう母に頼んでくれると約束してくれた。だが、幾ら待っても老婆から返事がないので、はやり母に断られたと思い約束は諦めることにした。ジミーからも何ら音沙汰がなく、切羽詰った彼女は恥を忍んで実家へ戻ると覚悟を決めたのである。
 借りていた一軒屋は隣のオンリーに始末してくれるようお願いすると、実家から持ってきたリュックサックを再び背負い急いで街を出た。帰ると幸いなことにジミーとのことはまだ知られていなかった。しかし、両親と一緒に暮らすうちに心が痛み出し、ついに耐え切れなくなって母親に打ち明けた。いくら娘と言え、狭い田舎では庇いようもなく日が経つに連れて親戚や周囲の目は厳しくなるばかり、予定した仕事も断られ悶々と日々を送っていた。ところが、そこへ母から“許すから帰って来なさい”と認めた手紙が届いた。老婆が約束を果たしてくれたのである。母からの手紙を“救いの手”だと感激した雪ちゃんは直ちに両親に事情を話して一目散で故郷を後にした。驚いたことに、彼女の話しではコムカラ峠を越えて千歳に着いたということだった。
 “母からの手紙”と“コムカラ峠”を除けば私の想像は大方当たっていた。
 頑固で厳しい母が雪ちゃんを許したとなれば余程のこと、私にはどうしても理解出来なかった。だが、コムカラ峠と言えば幸ちゃんも故郷を出る時に越えたはず、彼女の悲しい身の上と我が家で働くことになった経緯は母から聞いて既に知っていた。雪ちゃんもコムカラ峠を越えて来たのであれば幸ちゃんの故郷と同じ方角ということになる。二人が同じような事情を抱え辛い思いに耐えてこの峠を越えたのか・・と想像するうちに、ふと、私の脳裏にひとつの記憶が過ぎった。昭和初期、母が両親と共に富山県から移ったばかりの幼い頃、長沼の貧しい農家で育ったと苫小牧の叔母から聞いたことがあった。以来、母にも幾つか辛い事情が度重なり、長沼を出る時は断腸の思いでコムカラ峠を越えたに違いなかった。母にとって“洗い場”から舟で川を下れば長沼当たりに辿り着くことは至極容易なことだ・・遥か向こうの空の下に母や彼女たちの故郷が待っていると、この時漸く気が着いたのである。そう言えば、“洗い場”を母が作りはじめた時、幸ちゃんが誰よりも神妙な顔付きで手伝っていた姿を思い浮かべると、その理由がはっきりと捉えることが出来た。心の拠り所となる“洗い場”を作ると言い出したのはまぎれもなく母である。彼女にしか答えられない秘めた理由がそこにあったのだろう。不思議な縁の結び目を考えていると、傍で雪ちゃんが「やっぱり、私を救ってくれるのはお母さん一人」と言って目を潤ませた。すると、清流の向こうに優しい母の姿が浮かんで見えた。母を嫌ってばかりいる自分は間違っていると思うと何故か苫小牧の叔母が恋しくてたまらなくなった。
 私が必死で守り続けて来た下駄屋での秘密は水泡となって消えたが、口喧しい母が家人たちにとって掛け替えのない存在だと知って、胸の蟠りがすっと消え救われる思いが沸いて来た。「もう米兵はこりごりよ」雪ちゃんが小さな声で呟いた。彼女も故郷を思い浮かべこの“洗い場”から下流を眺めていたのである。もちろん、母も同様にこの“洗い場”に立ち、幼い頃を思い出し雪ちゃんを許したのであろう。
 それから数日か経ち夕飯が済み家人たちがお店に出て間もなくのこと、誰も居ない大広間にひょっこりと雪ちゃんが顔を見せた。照れくさそうに笑みを浮かべ「これ記念に・・」と言って新聞紙に包んだ小箱を私の両手に乗せて直ぐお店に戻った。そっと開けると、意外なことに「千代の山」と焼印が押されたあの下駄が入っていた。雪ちゃんは千歳に着くと直ぐに老婆を訪ねたのであろう。再びお店で働くことになったお礼を述べているうちに、私が以前から欲しがっている下駄のことを聞き、彼女はその場で買い求めたことは容易に想像が出来た。“秘密を守ってくれた”私へのお礼と思ったのだろう。
 翌日、母から「それ、どうしたの?」と尋ねられ「雪ちゃんのお土産」とさりげなく答えると、さも意味ありげに母がニッコリと笑った。さては秘密を知っていると察した私は彼女に合わせて笑みを返した。すると、母はつんと澄まし顔して口を“への字”に曲げたまま何も言わずにお店に戻った。私もそのまま意地を通すことにして、その後も下駄屋でのことには一切触れずに済ました。
 下駄は私と彼女との信頼の証だった。放課後になるとその足で帰宅し下駄を履いて“洗い場”の尖端に立ち遠く母の故郷を眺めるのが心地よかった。時々、雪ちゃんが顔を見せるようになり、私は味方がひとり増えたと胸を躍らせていた。清流を背にして佇む雪ちゃんの姿はまるで湖底に棲む女神のようにすらりと背が高く容姿は青白で美麗、気品に満ちた仕草は少しも変わらず、浅瀬に寄せる白い波は将に彼女の使者である白蛇のように見えた。一年前の夏、湖畔で白蛇に出会った時の情景を思い出すと彼女が話してくれた湖の伝説が蘇るようで“洗い場”の先端で私は川べりのせせらぎの音を聞きながら誰にも知られることのない甘美な空想に酔いしれた。そして、このことは母にも幸ちゃんにも内緒であった。(つづく)