第15話 (五)白蛇伝~「コムカラ峠」外伝~

2014.03.10, 月曜の朝, コムカラ峠

~2014.03.10(月)~

 その後、学校給食で牛乳とパンが出ることになったので“山羊の乳”を貰いに行かずとも済むことになった。母からは続けなさい!と頻りに奨められたが、雪ちゃんのことを思うと、老婆に会わなければ“秘密”が守れるので直ぐにでも下駄屋へ行くのを止めたい気持ちで一杯になった。何よりも嬉しいことは日曜日の早起きから解放されたことで、まるで羽根が生えたように心身ともに身軽になり心配ごとは何もなくなった。家の中で雪ちゃんと顔を合わせても何もこだわることはなく、以前と同じく笑って世間話をするようになり、私が下駄屋に通わなくなったことを知って彼女もほっとしたに違いない。街中では次第に米兵が増えはじめお店の仕事がますます忙しく、二人がゆっくりと話す機会もないままに何時の間にか夏を迎えていた。 
 初夏の暖かいある日のこと、母の発案で家人たちを総動員して幾日も費やし筏を組んで川岸に洗濯場を作ったことがある。最初の日、これから何がはじまるのか?誰も想像着かないまま母の号令で家の前の川べりに集まった。
 真っ先に幸ちゃんと雪ちゃんが駆けつけ、予め手配して置いた材木と丸太が運ばれて来ると、「みんなの手でここに洗濯場を作るのよ!」といつもの調子で大きな声が掛かり、母が選んだこの川べりは遠浅が続きその向こうに中州が浮いていた。中州から更に流れの中央に踏み込むと白波が立ち渦を巻いた恐ろしい深みが待っていた。深みは支笏湖の湖底と同じく濃い緑色で覆われ時々風が吹くと白々とした川底が姿を現すこともあった。ここでも不気味な気配が女神の手によって封じ込められ、川底は湖に棲む生きものたちの棲家であり彼女が治める領地であることは間違いなく、白い蛇が現れても何ら不思議ではないことを物語っていた。
 普段より母が二階の窓からこの清流を眺めているうちに、川べりから浅瀬を跨いで中州まで届く橋を掛けることを思い着いたらしく、既に設計図は彼女の頭の中で描かれていた。鍋や釜、食器類は言うに及ばず寝巻きや下着まで、家人たちが使用する日用品すべてをこの川水で洗う、同時に洗濯場を利用して浅瀬に体を浸せば水浴びが出来て簡単な泳ぎ場を兼ねると考えたらしい。直ぐ傍に中州が浮いているので深みに巻き込まれる心配はなく、しかもそこは小さな孤島みたいで柔らかな草むらが茂り少年たちには短い夏を楽しく過ごす格好の遊び場でもあった。
 ところが、母の号令が轟いたこの日から思いも寄らぬ光景が待っていた。
 彼女の指図に従い朝早くから家人たちが汗だくになって丸太と製材を切り込む作業が幾日も続き、その後、これらを組み立てると一挙に筏の姿に変わり母の言う通り橋の原型が眼の前に現れたのである。この筏を中州に掛ければ立派な洗濯場が出来る・・はじめて母の計画が現実に見えたのでそれまで重労働で不満だった家人たちは文句なしに納得し、“自分たちのために”と改めて思い直すと互いに手を取り合って喜びに沸いた。
 厳つい筏は二人がやっと通れるほどの狭い幅だが長さは七~八メートルぐらいはあっただろう。それは川を堰き止め魚を生け捕りにする残酷な“生簀”か?あるいは獲物をじっと待ち伏せする凶暴な鰐の背中によく似ており、遠くから見ると如何にも薄気味悪く、胡散臭く見えたのは私ばかりでなかった。
 しかし、母が秘める豪腕の真骨頂はここからはじまった。筏が完成すると間髪入れず岸辺に太い杭を一本打ち付けそこに荒縄を縛り付けた。急流を睨み付けながらこれに飲み込まれて成るものか!と言わんばかりに大きく深呼吸し、荒縄のもう一方の端を自分の腰にしっかりと巻き着けた。更に驚いたことには、本人が持参した着物の帯を襷がけにして大きな槌を背中に背負うと、素早く靴を脱ぎ捨て素足になって腰を低く構え男のように股を広げて両腕で丸太を抱えたのである。丸太は少なくとも母の背丈ぐらいはあっただろう。その姿は、まるで“仁王立ち”か“弁慶の立ち往生”のようで家人たちは唖然として言葉を失い、目を丸くしてこの荒業を見ていた。命知らずの綱渡りでもするかのように母は慎重に一歩一歩と浅瀬を踏み分け中州に近づいて行った。
 ところが、私が「止めて!」と叫んだために母が振り返った途端、足を滑らせて胸まで深みに落ち込んだ。「お母さん!戻ってちょうだい」と雪ちゃんが必死で叫ぶ、続いてみんなが一斉に「無理しないで、もう駄目!」と叫び、まるで少女のようにその場で地団太を踏む者や尻を投げ出して座り込み地べたを両手で叩き付ける者もいた。傍にいた幸ちゃんは恐ろしさの余り身も心も凍り着き立ったままで声も出なかった。
 母は断固として耳を貸さず浮いた丸太にしがみ付き槌の柄でどうにか舵を取りながらやっとのことで深みから脱出することが出来た。だが、母の豪腕振りはこれで終わりではなかった。ずぶ濡れの体を漸く中州に乗り上げるとむっくりと立ち上がり、槌を両手で握って振り上げると渾身の力を込め「ヤッ!」と掛け声を張り上げ思いっきり丸太を打ち込んだ。薪割りのように何度も何度も打ち続け、その度に飛沫が舞い上がった。バッシャという凄まじい音と一緒に母も吹き飛ばされそうで、私はあの白い蛇が通る底なしの深みに嵌りはしないか!とそら恐ろしくなり幸ちゃんの手を握ったままガタガタと震えていた。やがて丸太が半分ぐらい地面に埋まると、母は腰の荒縄を手早く解いてその杭にくくり付け、これで岸辺と中州が一本の荒縄で繋がった。岸辺からはよく見えない中州の陰は、油断すると直ちに流れに飲み込まれ深みに落ちる危険な場所だった。
 次から次へと目の前で起こる身を捨てた母の行動に家人たちが固唾を呑んで見守っていた。すると、突然、雪ちゃんが素足になり母を真似て流れを踏み締め中州に繋げた荒縄を手繰り寄せながらゆっくりと浅瀬を渡りはじめた。これを見ていた家人たちも我も我もと素足になり急いで雪ちゃんの後を追いかけた。母のお陰で中州に繋げた荒縄が浅瀬の目印になり幸いにも深みに嵌る者はなかった。家人たちは全員無事に中州に付き、一斉に母を囲んで顔を突き合わせると幸ちゃんがシクシク泣き出した。彼女につられてみんなもおいおいと声を挙げた。母は娘を宥めるように一人一人の肩を優しく撫でクスクスと笑いながら、「さあ~もう少しで完成よ」と励まし、この日の作業をお終いにした。ただ、雪ちゃんだけがみんなから少し離れ、岸辺に取り残された私に向かって手を振り続け母が無事であると知らせてくれた。彼女も母に似て気丈夫で冷静な性格だったのかも知れない。
 翌日、今度は雪ちゃんが先頭に立ち荒縄に沿いながら川べりから一番近い浅瀬の川底に丸太を打ち込んだ。続いて家人たちも三人一組になって順序良く交代しながら一本また一本と打ち込んで行った。それが終わると、流れにまかせて筏を浅瀬に浮かべ一列に並んだ杭にくくり付けて洗濯場が完成した。母が号令してから十日ほど過ぎていた。
 この間、これまで見せたこともなかった母の何ものをも恐れない豪腕ぶりに私は全身ねじ伏せられるような強烈な衝撃に打ちのめされた。どんな逆境にでも立ち向かって勝つ自信・・どんな仕打ちを受けても我慢して粘り抜く忍耐力・・かって、断じて苫小牧に帰ることはない!と母が宣言したことをこの場で立証したような結果に終わったのである。
 引越し以来“苫小牧の叔母に会いたい”とずっと願っていた私の期待が何処かへ吹き飛んでしまった一瞬でもあった。おそらく、家人たちも同様であったろう。日頃から“何時かは故郷に帰れる”と願い我慢して働いていたはずだが、この時ばかりは頑強な母の覚悟を目の前に胸に痞えていたものがすっきりと通り、行く手に晴れ間が見えたに違いなかった。それにしても雪ちゃんの大胆な活躍は思いも寄らぬこと、これを機に母と同じく故郷を捨てる覚悟が出来たとも受け取れ、母の魂が彼女にものり移ったような気配がした。みんなで祝杯を上げた時、雪ちゃんがこの洗濯場を“洗い場”と名着けたいと珍しく自分から言い出した。母はニコニコしながら何度も頭を縦に振って賛成し、それ以来この洗い場が私たちの占有する特別な場所となった。・・・と、言うよりも異様な気配を察した隣人たちが誰もがこの非衛生的な行為に嫌悪感を抱き、色々と在らぬことを冷たく疑い、決して寄り付こうとはしなかった。
 たしかに“洗い場”は遠くから見ると小さな“船着き場”に似て、如何にも外の街から流れ着いた見知らぬ女性たちが集まり、悪事を重ねて怪しく賑わう“溜まり場”と誤解されても仕方がない場所だったのだろう。しかしながら、この“洗い場”に立つと、浅瀬の川底が透き通り巻き起こる白波が深みに向かって細長く光り、殊に夕映えの頃は空の橙色を映して輝き、この世のものとも思えないほど美しい光景が浮かび上がった。次第に私はこの場所が好きになった。晴れた日には朝や早くから腕捲くりした家人たちがずらりと並び飛沫を浴びて洗濯をする。その姿は妙に晴れ晴れしくてまぶしく逞しかった。少しも恥じることなく、物怖じすることもなく溌剌と働く姿を見ているうちに“洗い場”が家人たちのささやかな憩いの場であることに気が着いた。母の真の目的は何か?その具体的なひとつの形が“洗い場”となって現れたのである。外眼には不謹慎で不真面目な姿に映ったであろうが、これも母は既に承知の上で他人の白い目や悪しき吹聴などまったく気に掛けず、家人たちと母が仲良く申し合わせたように平気な顔で黙々と洗濯を続けた。その姿は、清流の白い波の如くきらきらと輝き、夕映えの空ように燃えていた。私の目にはその光景が痛快そのものに映った。浅瀬はまるで母の意図に応ずるかのように絶えず清く流れ続け、私や家人たちの食器や衣類ばかりでなく悲しみや喜びのすべてを跡形もなく洗い落とし海に運んで行くようにも思えた。
 長じた私が今だから解るのだが、我が家は言葉では言い尽くせないほど貧しかったが、母の心情は弱い者たちを労わる愛情に満ち溢れ、青空の如く澄み渡り月夜の如く明るくて春風が山野を抜けるが如く暖かった。また、家人たちの心も母と同様でこの“洗い場”から見える風景の如く涼しげで澄みきっていた。(つづく)