第6話 故・徳本英雄君を偲ぶ~不思議な胡蝶蘭に寄せて~

2012.11.12, 月曜の朝

~2012.11.12(月)~

 本年五月、連休を利用して約二十年間住み慣れた本社の事務所を移転した。社員六十数名からなる大所帯の引っ越しは、やたらと繁忙な準備期間を費やした上に多大な費用が嵩み目の眩む思いがした。来年六月六日に創立30周年を迎える、これを節目に更なる社業発展を期し、若い経営陣の育成に心血を注ぎ新しい経営基盤の確立を目指そうと思っている。“新しい酒は新しい皮袋に注ぐべし”のたとえに従い、創業者の私自身が最後に出来る仕事だと決断した。思えば、昭和50年代を過ぎた頃、職場((株)北海道ビジネスオートメーション、略称HBA)で巡り会った徳本君を先頭に私たち数人の有志が集まり“北海道開拓の未来はITとバイオ技術”を合い言葉に(社)北海道開発問題調査会(略称HIT、故・志摩良一理事長)の支援を戴いて活動を続けた“地域情報研究会”が弊社創設の発端となった。背景には現在で言うところの異業種交流会であるSAS(システム・アナリスト・ソサイアテイ)北海道のメンバーが多方面で協力してくれた。当時、SASは東京が基点(SAS東京)で徳本君が東京時代に築いた人脈が源流にあった。
 徳本君は東京からのUターン組で札幌出身、私が勤務するHBAに応募した中途採用者の一人だったが、妙な縁で直属の部下として配属された日から互いに意気投合して職場を越えた深い間柄となった。同時に入社した西陰研治君もUターンの岩内出身、この三人が同志の間柄になるには少しも時間は要らなかった。やがて我々は独立を決意、昭和五十七年、徳本君は(社)北海道開発問題調査会と合併したシンクタンク(現(一般社)北海道総合研究調査会、略称HIT、理事長は五十嵐智嘉子氏)を立ち上げた。続いて昭和五十九年、私は地域情報を主たるテーマとする(株)北海道総合技術研究所(略称HIT技研)を設立、少し遅れて昭和六十二年、HIT技研と(株)秋山愛生舘の出資による(株)酵生舎を設立、西陰君が初代社長に就任、バイオ技術(牛の新鮮骨からコラーゲンを抽出し製品化を目指す)を探求した。お互いに“地域開発”が共通テーマであったから立場や生業は違っても何ら異存はなく、むしろ互いに補完し合う役割を有していることから友好的な関係を保ち現在に至っている。我がHIT技研の設立当初は社員も数名だったので事務所はHITの隣部屋50坪ほど“間借り”させてもらい、それが三人の夢が詰まったささやかな事業の出発点となった。困難な事態に直面した時、徳本君に相談すると私より年齢が若いにもかかわらず「そんなことで、いちいち狼狽えるなよ」と怒鳴られたこともある。常に前向きで心強く信頼出来る事業パートナーとしては頼り甲斐のある朋友であった。同じ場所で苦楽を共に過ごしたことが幸いしたのか、お互い事業も広がり次第に社員も増えて行った。弊社が設立10周年を迎えた節目(平成七年)に狭くなった事務所から別な場所へと移転することになったのも、今思えばHIT面々の暖かい支援による賜物であった。
 その後、事務所が遠くなったとは言え徳本君とは時々会って近況を報告し合い、彼も私も大好きなお酒を愉しく酌み交わしていた。彼は議論好きでめっぽう酒が強いが、時々病に見舞われ入院することがあって目が離せなかった。心配するあまり“暴飲暴食は謹んでくれ”と注意を促すと「オレは不死身だ」と居直り、笑って反撃に出る彼の流儀には幾度も手を焼いたものだ。だが、希代の読書家である彼は独特の美学を有し硬質な理念を抱き強気に徹した仕事ぶりは誰にも真似が出来なかった。そのため誤解を生むこともしばしばで口惜しい思いに沈むこともあったが、職場ではその苦しい胸の裡を断じて語らず、機会を見付けては私にだけそっと打ち明けてくれていた。ただ、その様な時は普段に比べていささか不機嫌で当たりも強かったが、同時に不甲斐ない自分自身に対し怒りを向けていたことも確かだった。酒宴の途中、ふと“オレ、帰る”とひと言を漏らし座を外した時の様子は、何処か孤独で寂寥感が漂い裡に秘めた切ない気持ちを滲ませていた。めったには無かったが、それは“悲しい”というよりも、もっと深刻で憂いに満ち“切ない”としか言いようのない後ろ姿であった。私の知る限り、誰よりも故郷の札幌や北海道を愛した男だったからである。
 今回、弊社が引っ越して間もない五月八日(月)、忘れもしないその徳本君から本社移転を祝したメッセージを添え見事に咲き誇る高価な胡蝶蘭が新事務所に届いた。白い花びら一枚一枚が三列の枝にびっしりと浮き立つように咲き乱れ、半円を描く鈴なりの様は“鮮やか”と言う他に選ぶ言葉は見当たらなかった。私たちの新しい門出を祝ってくれる彼の並々ならぬこころの裡が透き通って見え本当に嬉しかった。白い花の精が現れて苦労した辛い過去を洗い流してくれるようにも憶え、我々似た者同士を励ましてくれる“華麗なる記念品”だと思うと胸に熱いものが込み上げて来た。昔から徳本君を知る我がS社員は「さすが!徳さんだ」と目を丸くし、しばらくの間気が抜けたように見取れていた。私は嬉しい気持ちを隠し切れずこの胡蝶蘭を人目の付く玄関中央に飾る様にと指示し、徳本君の声が聞きたくてHITに電話を掛けた。
 あいにく彼は不在、替わって総務部のY女史が対応してくれた。HITに長く務める彼女は私と徳本君との間柄をよく知り、その会話から察すると本人自ら色々と思案した末に胡蝶蘭を手配してくれた様子であった。しかし、「徳本理事長は東京に出張中です」と答える彼女の言葉がいつもと違い妙に余所余所しく聞こえたので、来客中か?他の事情で居留守を使っているのだと疑った。改めて「この前も東京でしたね」と念を押すと「ハイ、そうです」と再び乾いた空々しい言葉が返って来た。私が不信を抱いたと察した彼女は、それ以上余計なことを口にしなかった。止むを得ず私は「胡蝶蘭のお礼を言って下さい」と伝言を預けて仕事に戻った。
 幾日か過ぎ、その週の五月十二日(土)の午後八時頃、思わぬところに徳本君から電話を貰った。土曜日の夜は家内と一緒に夕食を済ませた後、ゆっくりとテレビ番組(この夜はプロ野球の日本ハム戦であった)を見ることにしているが、そこへ、いきなり「すまん!」と彼の声が飛び込んで来た。どうやら、Y女史は徳本君から居場所を口止めされていたらしかった。再三に渡り私が電話で彼女を問い詰めたものだから恐縮してその旨を彼に伝えたところ、本人がタイミングを計って電話をくれたのである。「すまん、すまん」を連発してから、「今、病院だが治療はいつもの通り直ぐ済むので来週には退院できる!」と元気な声を張り上げ少し慌てた様子で言い訳を繋げた。私は日本ハム戦に気を奪われていたので「そうか、無事なら文句はないよ!退院したら胡蝶蘭のお礼に一献酌み交わそう」と簡単に済ませ、うわの空で電話を切った。
 ところが、それから僅か十日を経た五月二十四日(木)早朝、通勤電車の中で徳本君直属の部下である五十嵐智嘉子専務から携帯電話へ連絡を受けた。左様なことははじめて、一瞬、冷たい隙間風がすう~と背中を撫でた様な不吉な予感が走った。すると案の定、震える彼女の声は「理事長は今朝未明に急逝しました」との訃報、私は全身から血の気が失せ息を詰まらせた。つい先頃“退院する”と元気な声で約束したばかり・・事務所にはまだ彼から贈られた胡蝶蘭が生き生きと咲いている・・それなのに!起こるはずがない出来事が何故に起きてしまったのか!将に晴天の霹靂であった。目の前が真っ暗になり身体が震えて止まらず、顔面蒼白で本社に着くと玄関先で胡蝶蘭が静かに私を迎えてくれた。誰にも、この私にさえも、ひと言も告げず突然に旅立った徳本君、逝く間際になって何故?私だけにこの様な香しい清楚な花を残して旅立ったのか・・凛とした花弁を見るにつけ“無念だ”と故人が訴えているような気がしてならなかった。さりとて、この真っ白な言葉からいったい何を汲み取れと言うのだろうか?途方に暮れたが、既にサイは投げられたも同然だった。急いで友人達の住所録を取り出し電話で知らせると、誰もが異口同音に「まさか!」と言ったきり押し黙った。
 午後から徳本君の亡骸にお別れを言いたくて自宅を尋ねた。道すがら酔い潰れた徳本君を送り届けた時のことを思い出した。彼は自宅に近づくと朦朧とした意識の中から「あの角で!」とタクシーを止めた。肩を丸めて車を降りると庭先で白い犬が出迎えてくれ、「オレを待っているんだ」と言って私に振り向きもせず手を翳しながら別れた。あの夜、酔ってふらつく彼の後ろ姿が鮮やかに蘇えると、やがて、塀に囲まれた曲がり角の徳本宅に着いた。躊躇せずに玄関先のボタンを押すと直ぐにドアが開き、夫人と娘さんが出迎えてくれた。奥の和室に通されると、いつもの様に眼鏡を掛けた徳本君が長身を横たえ静かに眠っていた。その様子は酔い潰れて寝込んだ時の姿と少しも変わることなく、思わず「徳さん!いったいどうしたんだ」と呼んでしまった。途中で詰まった私の声はかすれて届かなかったのか彼は無言のままだった。だが、直ぐに「この場に及んで、カヤバよ・・うろたえるな!」とあの日の如く一喝されたような気がして私は恥ずかしくなった。
 「君はどこまでも強気なんだなあ~」と皮肉のひとつも言いたくなるほど腹立たしい気分に駆られ、余りの口惜しさにしばし言葉を失ってしまった。彼が眠る畳敷きの小さな部屋は床を一段低くした洋間へと続き日差しの当たる縁側に繋がっている。窓から見える澄み切った青空には初夏の気配が漂い白い雲が浮かんでいた。今頃は悠々としてあの雲の上を歩いているに違いないと思った。洋間には背もたれの深い椅子が幾つも並び低い木製のテーブルをコの字型に囲んでいる。徳本君の朝はここからはじまったのであろうか、庭の草花を眺めなから新聞を読む彼の姿が浮かんで来た。ふと、故人に目を移すと枕元には菊の花が飾られ既に西方に旅立ったことを伝えており、やはり、雲の上か!と思った。構わず耳元に近づき「胡蝶蘭有り難う」とこころの中で思い切り叫んでやった。
 親族による密葬(五月二十六日)が無事に終わった日から、胡蝶蘭は私自身が世話をすることに決めて玄関口から執務室へ移した。窓際に置かれた満開の花は日を浴びてひときわ美しい彩りを添え痛む胸を癒してくれる。毎朝、白い花に向かうと、在りし日の徳本君が私に語り掛けて来る。酔うと決まって歌う井上陽水の「何故か上海」はとうとう私には覚えられなかった。また、彼が旅をして魅せられたと言うトルコやペルシャ、シルクロードにも私は行っていない。色々と紹介してくれた書籍にも目を通しておらず、会話を交わした時の様々なメモが今も手帳に残ったままである。要するに、徳本君が私に残した宿題を片付ける暇もくれないままに本人が何処かへ“雲隠れ”したのである。これが私の偽りのない実感、口惜しさ余りの恨み言である。宿題に手を付ける気にもなれず空しい日々が過ぎて行く。やがて、HITの社員や理事たちの熱い意向によって六月四日(月)午後二時より札幌市内の京王プラザホテルで会葬「お別れの会」を執り行うことになった。
 土曜・日曜日と休暇が続き「お別れの会」当日を迎えた朝、窓際に目を遣ると誠に残念なことにあの見事に咲いていた胡蝶蘭が枝先から一斉に姿を消していた。連休中にどの花弁も枯れて無惨にも朽ちた姿を床の上に晒していたのである。閉じたブラインドの傍に横たわる床がまるで月光を浴びた様に白く染まり、辺りに不思議な甘い香りと漂わせていた。ブラインドを開けてよく見ると、意外なことに一輪の花弁だけがかろうじて中央の枝先に留まり、淡い薄紅色を浮かべて私に語り掛けて来た。まるで徳本君の魂が細い枝先に宿ったように凜として咲いている。驚いたことにこの一輪は「お別れ会」が済んだ後、尚も約半月に亘ってそのままの姿を保ち美しい姿を崩すことはなかった。
 その様は魂魄が小鳥のように細い枝に掴まっていつまでも気ままに居留まっているようにも見え、もしかすると故人は一度でよいから私の新しい事務所を訪れたかったのではあるまいか?と案ずるぐらいに見事に咲き誇っていたのである。小さな花弁が徳本君の苦笑いや渋い顔と重なり、まだこの辺りを彷徨っているのではないか?と胸が痛んでならなかった。その後、薄紅色の亡骸は大事に持ち帰り庭先の牡丹の傍に埋めてあげた。紅白の牡丹は母が生前に植えたものだが、共に立ち上げた「ハスカップ愛好会」(昭和五十三年)を通して母も徳本君をよく知っていた。いずれにしても、私はこの不思議な胡蝶蘭をそう簡単に忘れることは出来ない。
 今、あれから約半年過ぎて短い秋を迎えた。白い花弁を失った執務室は以前と変わらず騒がしい仕事場に戻った。しかし、手元に残った胡蝶蘭の根はこのまま生き延びて来年の春には再び花を咲かせるであろうか・・あの鈴なりの鮮やかな花弁が果たして蘇るであろうか?・・私には想像もつかないが、天国で見守る徳本君であれば解るかも知れない。たとえ、咲かずとも強い根が生きている限り、私は徳本君だと思って毎朝語り掛けて行きたい。彼と出会ったあの時と同じように、新会社設立の“夢”と若い世代について夜を徹して話し合いたいものである。特に若い人たちには“友情”と言う“魂”に触れる人間の関わり方について、その普遍的な“かたち”を伝えてやりたい気持ちで一杯である。この老兵が全社員に向けて「創業の精神」の楔を打った暁には、かの胡蝶蘭の如く凛とした姿勢を崩さず黙して消え去ることが出来れば、将に本望と言えるであろう。(終)