第5話 少年時代(最終話)

2012.10.22, 月曜の朝

~2012.10.08(月)~

 時々、母が職員室へ呼び出された。
 店の仕事で忙しいにもかかわらず、その度に朝からわざわざよそ着に着替えて身体を小さく折り曲げ担任のN先生を尋ねた。私はその哀れで悲しい姿を物陰に隠れては平然と見て見ぬふりを装い、時には燻る反抗心を露骨な態度に表し “ざまあみろ”とその後ろ姿に唾を吐き捨てたこともあった。母には米兵を憎む気持ちを理解して貰えず、その口惜しい思いを何とか封じ込めたが、愉しかった苫小牧での暮らしだけはどうしても諦め切れなかった。そして、幾重にも連なる鬱憤を思いのまま晴らすことが出来るのであれば、たとえ“札付き少年”と呼ばれても少しも異存はなかった。しかし、今にして思えば別れた叔母を何時までも慕い続ける少年の無垢なこころは無邪気としか言いようがないが、当時は慣れない街や周囲の白い目を背負った日々の心細さは誰にも打ち明けることが出来るはずもなく、小さな殻に閉じこもったままひたすら孤独に耐える他は無かった。
 空しいこころの裡とは反対に先走る荒んだ行動、その隔たりが深まれば深まるほど暴言と暴力に拍車が掛かり周囲から遠ざかるばかり、何をするにも何所へ行くにもひとりぽっちだった。しかも、他人が寄せてくれる好意や同情には目もくれず、素直な気持は断ち切って羞じも外聞もかなぐり捨て、癪に障れば相手構わず難癖を付け喧嘩を売るのが日常茶飯事、しかし、本当は淋しかった。修羅場が一段落し相手を失うと呆然とする中で再び不安に脅かされ後悔することも珍しくはなかった。それにしても、幼い頃から同じ家に住み仲良く暮らしていた母と叔母がひどく言い争った日を境にして互いに気まずくなり、果ては絶交同然の結末を迎えるに至った経過について、私には米兵に対する極度な嫌悪感と共に到底納得出来ることではなかった。
 そうした疑惑、こうした不満をも含めて辛い胸の裡を誰にも悟られまいと意地と虚勢を張り続け、周囲の誤解や曲解などどうでもよかった。何事にもがむしゃらに突き当たることが自己主張に繋がり、如何なる時もあらゆる注意を払い、抜け目のない行動に徹し、この際“札付き”に成り切ることが、むしろ他人に対して明白な挑戦状を叩き付けることだと居直り、悩んだ末にこれこそ自分が会得した流儀だと固く信じ込んでいた。母に対しても心配を掛ければ掛けるほど、親のこころを深く抉り自分が無二の存在で有りたいと願った。
 ところが、さぶちゃんとの共謀が明るみに出た頃からあれ程までにうるさかった母が何事にも目を瞑り私を無視し、まったく口を効いてもらえず小言さえ言わなくなった。
 もちろん、私は急に冷たい態度に転じた母に対してそわそわと戸惑い、いよいよ見捨てられたか?と落ち込み、この先どうしてよいのか?まったく見当が付かず、さりとて異常な頑固さにはどうあっても勝てず、密かに期待していた“甘え”や“和解”は諦めねばならなかった。こうして一度はぐれて歩き出した道は二度と元に戻ることが許されず、真意を解せないまま母の不気味な仕打ちに“自暴自棄”という形で対抗するしか他に術がなかった。とうとう最後は母にまで無謀に立ち向かい、益々やりたい放題を続けるうちに私も黙り込み二人の間に深い溝が出来てしまった。
 この少年の裡に秘めたすべての疑惑と憂鬱の原因は、信頼する叔母の忠告を無視し独断ではじめた母親の商売にあったことは間違いない。しかも、その商売は街中の大勢の人々が嫌う米兵相手のビヤホール、商魂に徹した鉄面皮の母親を当然ながら世間が許すはずがなかった。その煽りを受けて、同じ屋根に住む父親と店で働く若い女性たちすべての者は白い目で見られ、冷たい仕打ちを受けるはめに陥った。もちろん、少年もまたこの厳しい狭間に立たされた。また、世間と同様に少年が最も嫌悪し憎む米兵が母親にとっては大切なお客、家族にとっては生活の糧であったことも皮肉であった。このジレンマが大きな壁となり、米兵に対する少年の憎悪がそのまま母親に向けられたことも止む得ぬ成り行きであったかも知れない。一方、世間の人々は、いかがわしい商売を続ける母親は如何にも身勝手なよそ者であると決め付けて毛虫のように嫌った。要するに手が付けられない子供と同様にその母親も風紀を乱す“あさましき親”と映ったはずである。
 しかしながら、少年の屈折はそればかりではなかった。苫小牧を去った時からやたらと強気な母親の態度に何か?不穏な空気を感じはじめていたからである。肉親である息子に対して何故か?母親自身が何処かに後ろめたさを感じている・・何かにつけて他人ごとの様に遠慮する目付きが見え隠れしている・・少年はその様に妙な勘ぐりを抱きつつあった。突然に訪れた叔母との別れが余りにも不自然、少年はその深淵に近づこうとしていたのかも知れない。このことも更に少年の猜疑心を煽り立てた。いずれにしても冷たい母親の沈黙には妙に暗い霧が立ち籠めていた。だが、こうした少年の苦悩を知らない母親は、息子が持ち込んだ不祥事は本人が“非”であることに自ら気付き、自分の力で真っ当な道を歩んでもらいたいと願い、その日が来るのを一心に待ち続けていたのである。
 小学校四年生の秋、私は学芸会で“劇”に出ることになった。いつものように担任のN先生から職員室に呼び出され「お前を劇に出し鍛える!」と怖い目を光らせ、たたみ込むような指導を受けた。今思えば、米兵に乱暴を続ける私の胸の裡を見抜き“本当の勇気”を教えようとする恩師の深い愛情であった。あるいは、母親と息子との間に生じた妙な誤解を解こうとしたのかも知れない。「母さんは了解している、明日から練習するからサボるな!」と叱り付けるように、太い眉毛を吊り上げギョロリと睨んだ先生の顔は今も忘れない。翌日、同志の三人も職員室に呼ばれ、先生はわざと同席させた私を前にして「お前の仲間も一緒だ!」と大きな声で一喝した。“米兵退治”の主犯格だと見抜かれ一瞬“しまった!”と慌てたが、さぶちゃんが居ない今、米兵を向こうに回して戦うリーダは正真正銘自分だ!と思い直すと、どんな罰でも甘んじて受けなければならないと覚悟した。
 先生が宣言した通りこの日の放課後から厳しい特訓がはじまった。四人とも同じ役柄で村の鎮守の森に棲む“どんぐり”の実である。幕が開くと、舞台には朝を迎えた鎮守の森がセットされ、暴風雨に打たれた柏の枝から落ちた四つの木の実に扮した私たち四人が輪になって登場する。一息入れてから口を揃え“朝が来た”ことを観客に告げると劇がいよいよはじまる。劇中、他の役を持つ者たちは最後まで主人公と共に活躍し観客の目を引く羨ましい役柄、だが、これに比べて“どんぐり”役は幕が開くとほんの短い台詞を放つだけであった。それが終わるとその場で寝転び幕が閉じるまでじっと待って居れば劇は無事に終わるシナリオとなっていた。言わば“どんぐり”役は主役や脇役と違って“朝を告げる”メッセンジャーボーイに過ぎなかったのである。
 にもかかわらず、私たち四人は長い台詞を練習する他の学生たち(主役は案山子、脇役は村の子供たちとスズメ)とあくまでも同じ扱いを受け、時間厳守はもちろんのこと発声練習や難しい台詞を朗読させられた。それどころか他の役柄の台詞や演技まで憶えろ!とN先生が厳しく命令するので、いささか不満に思い私が四人を代表して“何故だ”と尋ねると、「欠員が出たら代役を務めてもらうからだ!文句を言わず早く台詞を憶えろ!」と怒鳴られ、「お前が文句を垂れれば子分たちはサボる!」と逆に痛い所を突かれた。時々、私だけが夜遅くまで残されたこともあった。台詞や発声練習の他に小道具の修理までも手伝わされ、帰り際に「明日は仲間にも手伝ってもらうよ」と先生は有無も言わさず目を光らせ当直室に戻った。これらすべては先生の密かな計らいであることを私は知らなかった。
 先生を恨みながら疲れ果てた身体を引き摺り漸く帰宅すると、幸ちゃんが作ってくれた夕飯を目の前にうつらうつらと居眠りをはじめる始末、母はそんな私を黙って見据えると、「幸ちゃん!お店に出るので後は頼むよ」と言い残し急いで階段を駆け上がった。ところが、本番を迎えた日の朝早くに珍しく母が私の部屋に来て、いきなり「舞台で着なさい」と極太で編んだ丸首の茶色いセーターを渡されたので驚き思わず息を呑み込んだ。母が笑みを浮かべ本人自ら声を掛けてくれるなんて久しくなかったこと・・将に青天の霹靂だった。しかし、冷静になると忙しい仕事の合間を縫ってわざわざセーターを編んでくれた母の優しい姿を思い浮かべると嬉しくて胸が熱くなった。だが、何も言えずいつもの様に押し黙ってしまった。茶色のセーターは将に“どんぐり”の役にはぴったり、私だけが舞台衣装を付けて登場した感激は今でも言葉にはならない。やがて「チュンチュン」とスズメの囀りで幕が開いた。最初に主人公みたいに眩しいスポットライトを天井から浴びた私たち四人、「うるさいな~スズメさん!朝早くからどうしてそんなに鳴くんだい?」と私の台詞ではじまった。続いて「みんな!怖い嵐が去ったぞ」と四人揃っての短い台詞、気の弱い同志のA君が得意満面になり、この時ばかりと練習した通り声を張り上げた。台詞が会場に響くと四人の役柄は筋書き通り“これにて一件落着”、いよいよ主人公が登場すると我々は先生に言われた通りその場に寝ころび、そのまま目を閉じて幕が閉じるのを待つことにした。
 寝転んでいるうちに四人は退屈の誘惑に襲われそうになった。だが、幕の陰から先生の鋭い眼が光っているのを知っていたのでいつも逃げ出すA君はじめ抜け駆けする者は誰も出なかった。それどころか私たちは大勢の観客を前に台詞を立派に言えたことに大きな満足と誇りを感じていた。先生はチョイ役でも構わないから私たちを劇に登場させ、他の真面目な学生たちと一緒に特訓を受けさせることで少々の我慢を身に付け“小学生らしい明るさ”を植え付けようと・・将に憎まれ役に徹したと言う他はない。劇が終わり私は安堵して舞台から観客席を覗いた。すると、驚いたことに最前列に陣取った母と幸ちゃんがニコニコ顔で両手を振っている。私もつられて手を振ると、何故か涙が止まらなくなった。
 翌日、再び四人が職員室に呼ばれ、「君たちは立派に役目を果たした、卒業するまで模範となる小学生になれるはずだ!」と先生は潤んだ目で声を詰まらせて褒めてくれた。その様子を目の前に私たちは一斉に顔を見合わせ目を丸くすると思わず口元が綻び、その僅かな隙間から白い歯を覗かせた。はじめて先生に褒められて嬉しかったに違いないが、何故か?直ぐに口元を閉ざして知らぬ振りを決め込んだ。このまま一斉に大笑いに転ずれば、また先生から“ふざけている!”と怒られること早合点し誰もがこそばゆい気持ちを抑えて吹き出すのを必死で我慢していたのであった。私は頑なに守り続けて来た意固地な虚勢にはじめて後ろめたさを感じ“米兵との戦いは終わりだ!”とこころの中で叫んだ。すると、憎しみの入り混じった悲しみの塊が嘘のようにゆるやかに溶けはじめるのを憶えた。このまま急いで家に帰りN先生に褒められたことを母や幸ちゃんに報告したい気持ちに駆られ、今度こそ大手を振って自慢が出来るぞ!と逸るこころを押さえていた。先生は四人の坊主頭を一人一人丁寧に撫で廻し「立派な上級生になった」と神妙な顔をして頷いた。私たちは籠から解き放たれた小鳥のように爽やかな気分に満ち足りて、大きく深呼吸すると堂々と胸を張って職員室を後にした。
 時が過ぎて昭和三十九年春、私は母に奨められ梅子叔母さんを頼って東京へ出て大学に入学した。学園内には日本を震撼させた昭和六十年安保闘争の余韻が未だ色濃く残っていて、何所にでもアジビラが散乱し赤や黒のペンキで太く殴り書きした立て看板が所狭しとはびこっている。ヘルメットを深く被り手ぬぐいで顔を隠した学生たちが壊れ掛けたスピーカを片手に難解な言葉で矢鱈と怒鳴り散らしていた。在学中は学校封鎖と休講が続き警官との乱闘も珍しくはなかった。クラブ活動の各部屋が同志のアジト、教室の影にはゲバ棒が隠され、他校からも応援が来て「佐藤内閣打倒!」「日韓条約批准反対!」が合い言葉。
 入学して間もない頃、同じ学部の先輩が主催する新入生歓迎会の席で「我々と行動を共にしないか?」と隣席の先輩から声を掛けられた。「どんな行動ですか?」と尋ねると「我が日本を属国から解放する」との返事。「相手は米国ですか?」と問うと、別の先輩が「その通り!小学生じゃあるまし愚問はよせ!」とカツを入れられた。続いて「出身地は何所だね?」と、また別の先輩が言うので「北海道の千歳です」と答えると、少し間を置いてから「たしか・・米軍基地があったな」と先程の先輩が口を挟み急にいぶかしい目付きに変わった。この時、私の脳裏にはあの“少年時代”がまざまざと蘇ると“さぶちゃん”の顔が浮かび、思わず目の前に並々と注がれた盃を手に採ると一気に飲み干した。すると、先輩たちが揃って村田英雄の「人生劇場」を歌い出しその後酒宴は騒然となった。次第に頬が火照るのを感じながら私は「一度、国会請願デモに連れて行ってください」と頼み込むと、「ヨシ!行こう」と先輩たちが声を揃え五・六人が立ち上がり私を囲みスクラムを組んだ。こうして「少年時代」は大学生活にも大きな影を落とすことになり、同時にそれが私の青春時代の幕開けだった。その後、学園生活のあり様は読者の想像にお任せすることにして、この章をもって第五話「少年時代」の最終回としたい。(終)