第12話 城下町を訪れる

2013.05.06, 月曜の朝

~2013.05.06(月)~

 先日、岡山県高梁市を訪れた。山田洋次監督の映画ヒット作品「男はつらいよ」で2度ほどロケ地に選ばれたおなじみの街である。備中・臥牛山南麓の盆地に広がるこの街は人口約3万4千人(約1万5千世帯)の小さな城下町だが鎌倉時代から約750年の高梁は山陰と山陽を結ぶ要地であるため戦国時代には激しい争奪戦が繰り広げられ、城主は目まぐるしい交代劇に晒されたと記録されている。標高430mの険しい山道はまさしく人を寄せ付けない武士の古戦場、北から大松山・天神の丸・小松山・前山、これら四つの峰が堅固な要塞の役割を果たした。巨大に切り立った城壁から見下ろす街中には悠々と高梁川が流れる。むかし、隣国へと物資を運んだ高瀬舟がこの川を往来し多くの商人たちが財を為したと伝えられる。・・両岸から綱を掛けて荷を積んだ舟を大勢で引きながら上流を目指した・・と、傍でこの地で生まれ育った知人のK氏がポツリと言った。
 彼が旅行プランを手伝い水先案内を務めてくれたのである。旅に出る前、K氏から「山田方谷」と題した小冊が送られて来た。並々ならぬ愛郷心と歴史に興味を持つK氏のご好意に触れて嬉しかった。呼びかけられそうな気配、 まるでこの街は永遠に時間が止まっているかのようであった。
 他国者を拒むように依然として雨が止む気配はなかった。翌日は「吹屋ふるさと村」を尋ねた。江戸時代、この村は銅山で栄え、産出する硫化鉄鉱からベンガラ(染料)の原料となる硫酸鉄の生産に成功し一時期は人口6、500人にも及ぶまでに栄えた。再び学校の話題になるが・・村人の教育を長年支え続けたのが吹屋小学校である。明治六年創立、明治四十二年に本校を落成、尋常科及び講堂として建設された後は太平洋戦争の戦火を免れ、何と!平成二十四年三月に最後の卒業生7名を送って閉校した。県内最古級の洋風木造建築は珍しく、校舎は本校を挟み左右対称の配置、創建時の面影を色濃く留めている。廊下を歩くとミッシミッシと音がして思わず私が学んだ小学校の校舎を思い出した。千歳小学校は現在開校130年を越えたが、入学した昭和二十六年頃は木造三階建の校舎で、同じ運動場の窓ガラスを見ると遠い昔の懐かしい出来事が蘇った。真正面の壁には日の丸の旗が掲げられ、校長先生が直立不動で訓辞を述べる演壇が置かれてある。幼い生徒達は熱心に校長先生のお話しに耳を傾け、それが済めば・・たぶん校歌斉唱であったろう。片隅にオルガンが置かれてあるのも我が母校と同じく、もしかすると私はタイムトンネルの入り口に居たかも知れなかった。
 勿論、この村にも小樽の青山別邸(鰊御殿)と同じ様な事例が見られ、地場産業である銅山関連事業に成功した豪商の邸宅が残っていた。大野呂(地名)の庄屋で同家二代目広兼元治氏がそのひとり、享和、文化の頃、小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)製造で巨万な富を築き累代に渡って住み着いたのが広兼邸である。小山の中腹当たりに石垣で築いた敷地に二階建母屋と土蔵三棟、奉公人の長屋などが建ち並び、厳つい門構えは堅固な要塞を思わせた。横溝正史作の小説「八つ墓村」のロケ舞台になったとガイドさんからの説明、人里離れた豪邸は棚田を見下ろすように猛々しく聳え建っていた。想像を絶する構造物が意味するところは、単に豪商が求めた贅沢の極みではなく、身分の低い商人と言えどもこの村の発展に尽くした剛毅な“勢い”と気迫の籠もった政治力を想像さるところは、到底、現代では見られない光景であった。最後のコース「ひな祭り」は、思いがけない至福の時間となった。
 本町・紺屋川沿いに並ぶ商店街の両筋には江戸時代からの雛人形が店内や店先を舞台に所狭しと飾られていた。累代に渡り大切に伝えられて来た高貴な雛たちが高く幾重にも連なる雛壇の上で勢揃い、この光景を目にしたどの観光客も驚かない者は居ないであろう。雛壇を囲んで地元の人々が挙ってバザールやイベントを主宰している。すれ違う人に「何故この4月ですか?」と尋ねると「今が旧暦の3月ですよ」と念を押すように親切に応えてくれた。この街では忘れられた“陰暦”も通用する。四つ辻では子供たちがはしゃぐ賑やかな声、店頭には大勢の人々で溢れ出している、これも東京や札幌では見られないほのぼのとした光景。
 突然、人波の中から高齢の女性が現れるとK氏に向かって懐かしそうに「寄って行きなさいよ」と半ば命令調で奨めた。私の怪訝な表情に気付いたK氏が照れた顔付きで「小学生時代の先生だよ」と笑みを浮かべた。たぶん、この二人は数十年来の再会だったに違いなく、彼女の奨めるまま私もつられてお店に入った。すると、雛壇には溢れんばかりの雛人形が飾られている・・なるほど?日頃から温厚な人柄で知られるK氏はこうした人情溢れる隣人に囲まれ江戸情緒が残る芳しい街で生まれ育ったのだと改めて思い直した。すると、少し先へ進むと「山三」の屋号を看板に掲げた魚屋の店先に出会した。近所の人々が大勢集まって来て「よく来てくれたね」と笑顔でK氏を囲み、その会話を耳にした私はこの魚屋が彼の実家であることを知った。手早く皿に盛ったサバ寿司とハマグリの吸い物を差し出された。たぶん、前もってK氏が訪れて来ることを知った近所の面々が急いで腕に縒りをかけて作った“故郷の味”に違いなかった。よそ者の私まで親戚同様に声を掛けられ、厚かましいと思いながらつい遠慮するのを忘れてご馳走になった。現代日本が抱える問題の本質がよく見えて来る。地方が荒廃した歴史的な背景を尋ねればこの中央政府の沿革に歴然として浮かんで来る。
 江戸時代、300余藩(全国各地)によって独自に営んだ藩政は厳しい身分制度の下とは言いながら、藩主をリーダとして高い教養を積んだ武士が政治を担い、経済的危機に直面すれば怯まず財政改革を断行、絶え間なく人材を養成しその地に叶った産業を興し、先祖代々拒むことなく同じ土地に住み着き、揺るぎない社会秩序をもって後世に残すべく見事な文化を築き上げた。これが“封建時代”と呼ばれる地方分権社会である。「地方の時代」と呼ばれて久しい今日、地方自治の原型は江戸時代に遡ることを胆に命じて置く必要がある。今なお、「道州制」が具体的に進まない理由は何か?そのひとつに、中央政治が地方をつぶさに(謙虚)見る眼を持たず、評価する“力量”を喪失しているからである。その証拠に、巷では中央の立場に立った議論は盛んだが地方から望む議論は歓迎されない。
 幕臣のひとりだった勝海舟は維新後も明治政府に深く関わったが、彼が日清戦争を目前に“明治より江戸の方が民衆は幸福であったかもしれない”と言いはじめたと言う。所詮、武力政権から脱し切れない明治政府(徳川藩から薩長へ)は、敗者である徳川幕府が引いた封建制については“不平等で暗い社会”だったと決め付け、武士思想や身分制度を全面的に否定した。加えて、この史観を一般民衆に植え付けることを“自由と平等”に基づく教育とした。私の少年時代にも「お前は封建的人間だ!」と相手を誹謗し否定した大人たちが居たことを思い出す。時を経た今日でもその呪縛から解き放たれたとは言い難い。
 昨今、安倍晋三総理大臣が「道州制」を憲法に掲げるとの発言。彼は長州人であるから毛利・萩藩の政治をよく学んで居られるはず、松下村塾の事例を念頭に置けば「地方の時代」が間近に来ると言えるかも知れない。そうであれば、吉田松陰の教え「至誠にして動かざれば、未だこれ非らざるなり」を噛み締めて進むべきと考える。(終)