第5話 少年時代(二)

2012.04.09, 月曜の朝

~2012.4.9(月)~

 私は放り投げられた勢いに乗じて素早く身をかわし草むらの中に逃れた。背後は川べりに生えた葦が茂りかろうじてその陰に隠れることが出来た。川面を渡る冷たい風が葦の葉を揺らしカサカサと囁く声と浅瀬に寄せるさざ波の音以外には何も聞こえず、何事もなかったように静寂に満ちた中で思わず“助かった”と胸を撫で下ろした。だが、この岸辺には紛れもなく札付きの荒くれ者が潜み、浅瀬と橋桁との間は川底3~4㍍の深みが続く危険な急流が迫る、言わば誰の目にも凄まじい光景を映し出す戦場に他ならなかった。幸運にもこの辺りは私たち小学生の釣り場で川岸の地形は十分承知の上、慣れ親しんだ浅瀬はサケが通る道であった。秋になると私たちは放課後にこの橋の下に集まり、下流のインディアン水車まで土手を伝わりながらサケを追い掛け帰る時間を忘れて遊んでいた。
 米兵との距離は6~7㍍より離れていない。敵は思ったよりも近く、逃げ通せるはずはなく直ぐに捕まる!と怖れはしたものの、よく見るとその黒い後姿はじっとうずくまり、時々ウ~ウ~とうめき声を上げて辛そうにしていた。私の奇襲を浴びてど胆を抜かれ余程ショックだったらしく、息を詰まらせ身動き出来ずにしゃがみ込んでいる。だが、少し落ち着くと両腕を2~3度振り上げ深呼吸をしてから両手で股間を押さえゆっくりと立ち上がった。次第に冷静さを取り戻したらしく漸くこちらの方に向き直り、首を伸ばして眼を細め両手を大きく広げると獲物を狙う猛獣そっくりの仕草を見せた。これからはじまる凄惨な戦いを予告するように草むらの私に向かい憎悪を込めて睨むのだった。
 米兵はみるみるうちに怒りで顔が青ざめた。見たこともない肥満体は如何にも不気味な怪力を宿している巨漢、何やらブツブツ文句を言いながら肘が出るまで両袖をゆっくりと捲り上げた。すると、驚いたことに露わになったその腕は右に青い龍が暴れ、左には紅色の英文字が踊っている、これが噂に聞く入れ墨だと直ぐに解った。続いてボキボキと指を鳴らし握った拳を胸元で構えボクサーみたいに身体を左右に揺らす軽快な動作を繰り返した。ふたつ並んだ拳の間から覗く青い目が私を倒そうと殺気立っていた。
 鋭い眼力が私を捕らえて離さない。凄まじい殴り合いがはじまる!と覚悟を決めたがとても敵う相手ではなく、私の身体はブルブルと震え出し最後まで止まることはなかった。ところが、幸いなことに私の半身は葦に隠れほとんど相手には見えない、そこで再度“蹴り”で行く!と次の一手を決め、そっと身体を縮めて相手を待ち伏せすることにした。バネの軸となる左足に重心を置き腹の底に力を貯めると身体を地面に這わせるように踏ん張った。どうかもう一度チャンスを下さい!と念じ蹴り上げる右足に願いを込めたところ、私の戦法に気付いたのか?何故か、米兵が急にそれまでのポーズを変えた。私はこれら一部始終を葦の陰から観察していた。
 橋桁を通る風が葦の茂みを押し除けたのであろうか?私の居場所が相手に察知されたに違いなく、構えた拳を直ぐに止め万歳する恰好で掌を空に高くかざした。どうやら私の小さな身体を丸ごと抱え込もうとしているらしく、ビール樽みたいな腹を“くの字”に曲げてのっしのっしと雑草を踏み倒しガリバー(物語の主人公)みたいに近寄って来た。いよいよ来るぞ!と気合いを入れて見入ると、川べりはぬかるみで滑って足場が悪い上に葦の葉が身体に絡み付く、それに異様な太鼓腹も邪魔をしているみたいで相手の足腰が妙にふら付いて思うように歩けない。私は出来るだけ身を小さくしコロポックルみたいにその場にしゃがんで米兵が現れるのを待った。
 頭上にスッと黒い影が差すと巨人の両手が私を捕らえようと覆い被さって来た。まるでお伽噺に登場する天狗の団扇みたいに五本の指を開いた掌、だが、何かの拍子で付着したのか妙に甘い香りがプ~ンと匂って来た。不思議に思って見上げると、屈んだ巨人の懐には私の身体がすっぽり潜れるほどの空洞が生まれ、素早くそこに身体を滑り込ませるとスルリとくぐり抜けることが出来た。相手がつんのめった拍子に現れた巨大な尻に無我夢中で体当たりしてアッという間に相手を倒してしまった。まるで象のように大きな米兵の臀部は朽ちた土塀のように巨体と共に一気に崩れ落ちた。ガサガサと葦の茂みが騒ぎその場から水鳥が数羽飛び立った。咄嗟に出た「肩すかし」が思わぬ反撃へ転じてかろうじて難を逃れることが出来た。
 大男はあっけなく地面に両手を着き、そればかりか顔や軍服にも泥を浴びて無様な恰好を露呈させ力なくその場に座り込んでしまった。惨めな自分の姿に気が付き思わず両手を広げて「オー、ノウ!」とあわて叫んだが既に後の祭り、ズボンがぬかるみに浸かってびしょびしょに濡れぐったりと肩を崩して頭を垂れ口を閉ざした。無惨にも胸に輝く勲章までもが泥に塗れてしまい、深くプライドを傷付けられたみたいであった。よれよれになった米兵はさすがに哀れに見えたが身から出た錆だと思うと私の気分はすっきり晴れ“これでよし!”と割り切った。再び周囲は静まり返えると、私の戦いを見守っているかのようにサラサラと涼しいせせらぎの音が聞こえて来た。
 自力で得た優勢ではなく、あくまでも相手が自滅し奇襲や咄嗟の身のこなしによって拾った成果だから油断出来るはずもなかった。それにしても、相手に与えたダメージは“股間蹴り”よりも“肩すかし”の方が遙かに大きく、切羽詰まった局面から脱したのは奇跡、葦の葉とぬかるみが味方してくれたお陰だと思った。幸運が舞い込んだ・・この確かな手応えは次第に私を興奮の渦へと巻き込んだ。ひ弱な私でも死にもの狂いで戦えば必ずや勝てる!と思うと自信が沸いた。しかしながら、次の戦いはこれまで通り上手く行くとは限らず、相手がどんな戦法に出るのか?見えないうち油断は禁物、依然として震えが止まらないまま、私はもう一度振り出しに戻り決意を新たに戦わねばならなかった。
 米兵がもたつく隙に幸ちゃんは目にも止まらぬ早さでこの場をすり抜け、なり振り構わず川べりの土手を這い上がった。猛スピードで橋の上を駆け抜ける下駄の音を聞きながら、故郷の新聞配達で鍛えた彼女の足はさすがに早くて爽快だった。しかも、二度と捕まらぬように!と我が家と反対方向に逃げたのも完璧の用心深さで抜かりがない、彼女の機転は他に誰も真似出来る者は居ない“よくぞ!凌いだ”と直接会って褒めてやりたい気持ちで一杯になった。常日頃から思慮が深く慎重な上に相手が困るほどしぶとく我慢強い、更には絶体絶命のピンチにも強い幸ちゃんがはじめて見せた見事な真骨頂であった。私は唖然としながらその快活で賢い気質に心が洗われた気持ちになり、眩しく羨ましくてならなかった。自分も少しでも幸ちゃんに見習えばどんな困難にも乗り越えて誰にでも勝てる実力がきっと着くと合点した。
 無事逃げてくれ!と大声で叫ぶと、米兵がぬかるみからすくっと立ち上がり口惜しそうに唇を噛み締めながらパチンと親指を鳴らし「コンチクショ・・!」と憎しみを込めた言葉で私の声を遮断した。苦々しい表情で顔の泥を拭うと再び拳を握り直し険しい顔付きで雑草をかき分け広場へと踊り出た。その時、再び葦が米兵の膝にしつこく絡み付いたが、今度は顔を真っ赤にして思い切り両手で茎の根元からむしり取ると流れの中に投げ捨てた。その仕草はまるで私を握り潰し川底に沈めてやる!と言わんばかりに荒々しく深い怨念が籠もっていた。せせらぎの音が一段と激しく聞こえる中、米兵は広場の真ん中で胸を突き出し“逃がしてなるものか!”と鼻息を荒くしながら腕を組み私が現れるタイミングを狙っている。その仁王立ちの姿はまさしく決闘を挑む気迫の籠もった猛々しい直立不動、そして米兵の最大の武器は隆々と筋肉が盛り上がった入れ墨の腕と鋭いスピードを有する厳つい拳、それに加えて血走った恐ろしい目であった。
 とうとう本番が来た!と覚悟を決めた。潔く正々堂々と相手と向き合うことに決めて、草むらからそっと姿を現すと米兵が唇を噛みニヤリと薄気味悪い笑みを浮かべた。川面がきらきらと輝き私は浅瀬を背に相手を真正面に据えて立ち合うべく姿勢を正した。幸ちゃんを逃した憎むべき少年に対する米兵の厳しいお仕置きとリベンジは直ぐそこにまで迫っている、この覚悟をゴクリと丸ごと飲み込み“俺は逃げない!”と心の中で叫び負けじと相手を睨み返した。
 最後まで戦う勇気を捨ててはならない・・腕力では敵わないが作戦で勝つ!と、手段を選ばず敵を倒すことだけを祈り自分に誓った。誓いながら、苫小牧から移った本当の理由はここにある!・・この米兵たちと戦うためだ!と、こうした行き過ぎた妄想が頭を過ぎり、千歳に住む限り如何なる局面でも米兵であれば同じく戦い続け、決して負ける訳には行かなくなった。すると、ふと、この時、喧嘩では誰にも負けない母の顔が浮かんだ。優しい叔母よりも金剛力士のような強い母が急に恋しく思えるのであった。(つづく)