第5話 少年時代(一)

2012.03.12, 月曜の朝

 

~2012.3.12(月)~

 昭和20年、私は敗戦が迫る苫小牧で生まれた。・・腹を空かせてピイピイと泣く赤子のお前を抱きながら凄まじい艦砲射撃の中をあっちこっちと死にもの狂いで逃げ廻り・・誰ひとり頼らずにふたりともよく助かったものだよ!・・と母からよく聞かされた。また、・・18歳の時、両親が一晩で病死する悲運に襲われ、長女の私が3人の妹と2人の弟を抱えて一家を支えることになって娘時代は苦労のどん底だった・・このことも母の苦労話のひとつだった。この叔母や叔父たちと会うと「母さん」と呼ばれる母を前に幼い私は不思議な思いに駆られ、いったい自分とはどの様な関係だろうか?と不安が過ぎったものである。その気丈夫な母が住み慣れた苫小牧の家を引き払い、千歳に移ると言い出したのは私が5歳を迎えた春のことだった。
それまで私達家族は叔父夫婦と同じ屋根の下に住んでいた。叔父は父の弟、叔母は母の妹にあたり、兄弟と姉妹がそれぞれ数奇な縁で結ばれた。戦時中のこと故に結婚後直ぐに兄弟は出征、兄はシベリヤで病に倒れてやむなく帰国、弟は戦地へ赴く寸前で終戦を迎えた。この後、二組の夫婦は戦火にまみれながらも苫小牧の家で互いに仲良く助け合って暮らしていた。

 母は結婚以前から末の妹である叔母と一緒にこの家で小さな飲食店を営んでいた。家と店は母の持ち物であったが、千歳在住の友人から届いた一通の手紙が発端となり単身で新しい商売をはじめると言って誰にも相談せずに腹を決めた。無理を承知で叔父夫婦に家を預け、病弱な父の反対を押し切った母の決断はその後少しも緩むことはなかった。私は生まれた時から一緒に過ごした叔母との別れが何よりも辛く、殊に見知らぬ街に移ってからはひとり淋しい日々を送らねばならなかった。母は若い頃から一家の担い手、仕事に追われっぱなしで私は生まれて直ぐに叔母に預けられたのも同然の身の上、それに彼女は顔だちや後ろ姿も母親そっくりで幼い眼には二人が重なって見えたのも無理からぬことだった。留守よりもいつも傍で遊んでもらえる叔母が余程恋しく、次第に大切な存在に思えて来たのも自然であった。また、母とは違い叔母は穏やかな人柄で甘える幼心を細かく受け止めてくれ何かにつけて周囲から守ってくれていた。

 千歳に移り傍に叔母が居ない生活には耐えられなかった。間もなく朝鮮動乱が勃発し街が米軍基地に豹変する頃に小学校へ入学した。それまで目が青く金髪で背の高い外人など見たことがなかった。突然、怖々とした軍服を身に付けた大勢の米兵が編隊を組んで街中に現れた時はびっくり仰天、また戦争がはじまると勘違いした私は鞄を放り投げると一目散で逃げ帰ったことは今も憶えている。街で見た奇怪な光景の一部始終を母に告げ「早くこの街を出よう!」と泣きべそをかいて迫ったところ、平然と台所で夕食の支度を続ける母が「ここを逃げてどうするつもりだ!」と意気地ない私を一喝した。次の言葉が喉に詰まって何も言えなくなり夕食の膳にも着かず、言い訳が出来ないから宿題があると嘘を付いてこそこそと寝室に閉じこもった。だが、その夜はいつまでも寝付かれずにとうとう朝を迎えてしまった。母が真剣に怒る時の形相は髪の毛一本一本が逆立ちするぐらい凄まじく赤い眼でカッと睨まれると家人の誰もが身を凍らせ竦んでしまった。ヒステリックな怒鳴り声も強烈、ことが起れば部屋中が水を打ったように静まり返り、いつもの賑わいは嘘のように何処かに吹っ飛んでしまう。“まるで仁王様だ”と家人たちから怖れられ、“留守がいい”と陰口まで叩かれ、誰かが叱られても全員が悪いと怒鳴られしばらくは口も効いてもらえなかった。母はめったなことでは怒らないがこの時ばかりは妙に意地を張っていたのでもしかしたら本気だったのかも知れない。意地を突っ張るその訳は、たぶん・・叔母に会いたくなったくじけそうな弱い気持ちを打ち消し、二度と苫小牧に帰らないと自分に言い聞かせた戒めであったに違いない。
 この街で何が起こるのか?魔物でも住んでいるのだろうか?家人に尋ねると、ただ笑うばかりで何も教えてはくれなかった。その後、街中を歩くとしばしば薄気味悪い光景に遭い、その度に寒々しい孤独感に襲われた。結局は“見知らぬ異国に来たのだ!”と自分を自分で言いくるめる他はなく、“千歳に移ったことは間違いだ!”と、ついには母を恨むほど暗くいじけた性格になりはじめていた。

 米兵が日本人を小馬鹿にする、日本人も図々しく相手に物乞いし平気で嘘を着く、そうした浅ましい光景が街を汚し続けた。少年が恐る恐る街角を曲がる度に狭い路地に潜む奇怪な人影に怯えてはいつまでも馴染めず、窓ガラスに映る蠢く影には強烈な嫌悪感を抱く、こうした身辺のすべては憎悪に満ちた黒い影に揺らめいていた。そればかりではなかった。日が経つと私達家族は“よそ者”だと言われ周囲から白い目で見られていることに気付いた。悪事など心当たりも無いのに、何故か?後ろめたさを感じつつ外出する気持ちなど起ころうはずもなく、惜しくて惨めで悲しい毎日が過ぎて行った。

 そうした辛い事情にもめげず物怖じしない母は地元の人には決して遠慮しなかった。それが本人の意図だったかも知れないが、堂々と高飛車の姿勢を崩さず商売を進めた。だが、店が繁盛しはじめると心ない吹聴に悩まされるなど、相当冷たい仕打ちを受けたらしく物置小屋の暗がりで人知れず泣いている母の姿を幾度も見たことがあった。その度に苫小牧を思い出した。残して来た叔母が傍に居てさえくれれば母の苦労は半分で済む、安心して学校にも行けるなど、小さな胸を痛めていた。叔母と一緒に海を見て過ごした愉しい日々が忘れられない、いつまでもじめじめと心が晴れず、友達も出来ないままに学校へ通った。街を通る度に米兵に対する反抗心も強まって行き妙な意地を張り矢鱈と暴力に走る目付きの悪い日陰者の小学生になろうとしていた。

 そうしたある日のこと、学校から帰る途中で相変わらず酔って乱暴を続ける米兵に目が留まり、とうとう堪忍袋の緒が切れていきなり相手の腕に噛み付いたことがある。もちろん、返り討ちに遭ってその場で起き上がれないほどぼろぼろに痛め付けられたが、この騒動が大きな転機となりその後身辺には様々な事柄が持ち上がった。それらはすべて今では忘れられない懐かしい思い出である。その日、土手を歩いていると怪しい人影が目に入った。またか!と思い当り急いで駆け付けると年端も行かぬ女性を前に米兵が何か片言を吐きながらわめき散らしている。私の気配で「助けて!」と女性が大声で叫んだ。私の顔が相手の腰に当たるほど遙か見上げるぐらいに背が高く、太い腕と頑丈な体格が異常な威圧感を放ち、将に誰でも構わず薙ぎ倒すことの出来る剛力を全身に滾らせていた。鉄兜を深く被り泥だらけの長い革靴を履き、如何にも殺戮の戦場から戻ったばかりだ!と言わんばかりの異様な風体、私は頭の中が真っ白になった。

 女性の背後には深い川が迫っている、直ぐさま彼女を払い除けると代わって私が米兵の真正面に立ち間髪入れず股間を蹴り上げた。「ワオ!」と巨漢が凄まじい声で叫ぶと同時に波打ってドッと前方へ倒れ込み、その勢いで私の身体も草むらへ投げ出された。女性に怪我は無いかと心配で雑草の隙間からそっと覗くと、驚いたことに彼女は身内の“幸ちゃん”、唖然として立ち上がる私に「ごめんなさい!でも・・仕方がないの・・有り難う・」と身体を縮ませ目をつぶって両手を合わせた。私はますます米兵を許す訳には行かなくなった。幸ちゃんは我が家に来たばかりのお手伝いさんで実家は隣村の農家、中学校を卒業して直ぐに母を頼って尋ねて来た。彼女も母と同じく一家の稼ぎ手であった。早くに親元を離れこの街に来た“よそ者同士よ!”と言って直ぐに仲良しになると私の淋しい胸の裡を聞いてくれた。

 優しい叔母の面影と重なる頃には、下校時間が近づくと校門まで迎えに来てくれた。国道36号線(当時は弾丸道路と呼ばれた)に敷かれた千歳橋を渡り土手を右に折れると神社山の森へと続く、その裾野に広がるグランドの一画に木造二階建の校舎が屋内運動場を抱えて二列に並んでいた。ところが、この日は下校時間が過ぎても彼女がいっこうに姿を見せない、心配して土手を歩くうちに向こう岸の橋の下で何やら怪しい人影が蠢き見え隠れしている。もしかしたら幸ちゃんかも知れない!いつも怖れている光景が目の前に迫り、私は全速力で橋を渡った。まさしくその影は荒くれ者を前に恐怖に怯える女性、しかも幸ちゃん!私は無我夢中で相手の腰にしがみ付き右足で思い切り股間を蹴り上げた。これが米兵とのはじめての衝突、私の少年時代はここからはじまる。(つづく)