第15話 (三)白蛇伝~「コムカラ峠」外伝~

2013.11.11, 月曜の朝, コムカラ峠

~2013.11.11(月)~

 その年が明けて間もない吹雪の朝のことであった。
 苫小牧を出る時に叔母から貰った帽子を被りいつもの通り下駄屋に向かった。防寒用の帽子は毛糸で編んだマフラーを頭巾に縫い合わせた簡単なものだが、頭からすっぽりて被って顎のところで両端を結べば襟巻にもなって全身がポカポカと温かかった。狂ったように吹き荒れる北風に襲われても平気な顔で歩ける、言わば、叔母が特別に作ってくれた“お守り”だった。苫小牧と違い千歳は雪が多くて身が切られるほどしばれると言って心配し、私を抱いてくれたこと思い出しながらいつも被っていた。その“お守り“を頼りに国道を歩き続けやっとのことで下駄屋に辿り着き、凍て付いた玄関戸を開けると奥の座敷に小さな明かりがポツリと見えた。目を凝らすと、私を待っているはずの老婆が誰かと何やら話している様子、朝早くからの訪問客は珍しいのでそっと覗いた。客の顔は背中を向けて見えないが細身の身体が薄明かりの中にぼう~と浮かび上がり、そこには若い女性が座っていた。
 黄色いブラウスに鮮やかな空色のスカート、白いネッカチーフを巻いた派手な装いは我が家で働く家人たちの服装と少しも変わらず、米兵を相手に仕事をする人だと直ぐに察することが出来た。穏やかな老婆が普段と違い妙に緊張している訳は特別な客を迎えているからだと直感、後ろめたい気持が先に立った。常日頃より地元の人たちが母や家人たちを白い目で見ていることは嫌と言うほど知っていたので、もの解りのよい老婆と言えどもそれとこれとは別、気後れした私は何とも複雑な気分に追い立てられた。しかし、仲良く暮らす家人たちと同じで恵まれない境遇の女性だとすれば他人ごととは思えず、ひと言でよいから挨拶したいと願って老婆の様子を伺った。
 ところが、老婆は用事が済むまでその場で待つようにと私に目で合図し自分はさっさと奥の部屋へ消えた。私は止む得なくその場で玄関先の長椅子に座りしばし時間が過ぎるのを待つことにした。ガラス窓から外を覗くと、何時の間にか空は明るみ吹雪も止んで朝の気配が立ち籠めていた。突然、米軍のトラックが交差点を走り抜けた。休日の早朝は必ずこの国道から島松の演習場へ向かう決まりがあるらしく、「危険だから日曜の朝は国道には近づくな」といつも先生からきつく注意されていた。その忠告が目の前で現実となった。“ここは戦場への道だ”と、改めて思い返すと米兵への憎悪がめらめらと燃え上がった。以前に米兵と川べりで決闘して以来、彼等はすべて私の敵になった。
 米軍が過ぎ去った後、巻き起こった雪煙がガラス窓を激しく叩いた、その凄まじい音はまるで先生が生徒を叱り飛ばすみたいに「外へ出るな!」と叫んで聞こえた。この惨めな光景を遠くからいぶかしく見詰める気配、T字路の向こう角で鮮やかに色づいたナナカマドの実が鈴なりになって夜明けの国道を照らしていたのである。その国道に私の靴跡がひとつ、ふたつとトラックの轍に挟まるようにして残っているのを見た時、思わず冷や汗が出て“助かった”と胸を撫で下ろした。もう少し遅ければ確実にトラックに襲われていたところ、昨晩、“出発は夜が明けぬうちに”と母から幾度も注意された意味が漸く理解できお陰で“救われた”と思った。私のこころの中では、もの別れに終わった米兵との決闘はまだ続いていた。辺り一面が銀世界に変わる景色を眺めながら、久しぶりに雪が深く積もった朝に米兵が演習に出掛けた・・夜が明けぬうちにそのまま原野の雪に埋もれ・・再びこの街へ戻らなければいい・・と、温かい“灯火”に映った赤い実に思わず本音を打ち明けてしまった。雨の日も雪の日も、国道に立ってこの街の隅々まで知っているこの小さな実は、新雪の帽子を深く被った切り素顔を見せず何も口にせず、吹き付ける雪煙にじっと耐えていた。
 「サリーさん!お待たせの山羊の乳よ」と明るい声がして老婆が白濁の瓶を抱えて現れた。“山羊の乳”は老婆が自慢するだけのことがあって暗闇の中から甘い香りが漂い、それは叔母が温めてくれた“乳”の匂いと同じであった。
 「私じゃなくて!あいつが飲むのよ・・」と、乱暴な言葉に驚いていると、「それに・・私の名前も呼ばないでほしいの・・」と嫌味も混じり、彼女は自分の名前はもちろんのこと、呼ばれることすら嫌っていた。老婆は直ぐに黙ってしまった。家人たちも本当の名前を隠していたので相手が不機嫌になる理由は私にも納得出来た。それよりも米兵が私と同じく“山羊の乳”を飲んでいると聞いたことの方がショック、忌々しくて腹が立ちその場で引き返そうと思った。だが、“サリ-さん”と老婆から親しく呼ばれる女性が米兵と暮らしていると聞いては、他人ごとのようにそのまま聞き流す訳には行かなかった。この街の何処かに日本の女性が米兵と暮らして居る場所があるという噂が頭に浮かび、彼女のことをもっと詳しく知りたい気持ちで一杯になった。暗闇の中での会話だから遠くで盗み聞きしても気付かれまいと、妙な好奇心に取り憑かれた私は外の景色を見る振りをしながら聞き耳を立てていた。ところが、会話は降り積もった深い雪と同じく私の胸に重くのし掛かって来るばかりとなった。
 女性が気まずくなった沈黙を破った。「私の本当の名前は・・」と言い訳するように口火を切ると、老婆が慌てて「いいのよ、人それぞれの事情」と相手を庇う。どちらも語尾が消えて聞こえなかったが、お互いに遠慮していたようだ。いきなり「知っているでしょう!オンリーはみな偽名なのよ」と甲高い声がすると、続いて「私たちはみな同じところで暮らしているの」と開き直った。「トミーもヨーコもみんな仲間・・」と吐き出すような調子。思い余ったのか、彼女は急に真面目な口調に変わり自分たちの様々な事情を老婆に打ち明けはじめた。意外なことに、その声の響きには仲間たちの深い悲しみが込められていた。
 トミーは二十歳になったばかりでヨーコも同じ年頃、近所に住むこの仲間たちが街に棲み着いたのはごく最近、家族とは音信不通でみなこの街を内緒にしているとのことだった。実家は貧しい農家や果樹園、他にも幸ちゃんと同じくコムカラ峠を越えて来た者もいたと言う。この間、老婆は少しも口を挟もうとはせずじっと耳を傾けていた。聞くうちに余程胸に堪えたらしく頷くばかりで言葉を失ったらしい。
 この山羊の乳、私も時々飲むのよ」と考え込む老婆を気遣って話題を飛ばした。「温めると何杯も飲めて・・まるで母乳みたい」無邪気な少女の独り言にも聞こえ、家族を思い出しているようでもあった。今朝は自分が飲むために買いに来たと言うので私は同胞に遭った気がして漸くほっとした。米兵と一緒に過ごす朝の食卓はこの“乳”とパンとハム、食材は週に一度ぐらい相手が基地の中にある売店で買って来るとのこと。他には衣類や遊具などアメリカ製品も整い、カタログの中で希望があれば本国へオーダすると聞いて、外国みたいな不思議な場所が基地の中に存在することをはじめて知った。パンはともかく、高価で珍しいハムやソーセージなどは我が家では決して口に出来る品ではなかった。この街では他にもチューインガムやソフトクリーム、コカ・コーラなど見たこともない品が平然と出回っていた。
 「あなたと同じ歳頃の出来事を思い出すと」と老婆が言い掛けたが、「戦争で無くしました」とため息を付き途中で止めてしまった。「今も戦争みたいなものよ」老婆の空しい意を汲んで彼女が怒った。まるで老婆に同調して戦争を恨むかのようで“この街だって戦場だ!”と、私も心の中で叫んだ。
 「これ、似合うかしら」と女性が下駄を手に取った
 薄明かりの中でカタカタと小さな音がして彼女の指先から黒い影が蠢くとスカートと同じ空色の花尾が明かりの中に舞い上がった。驚いたことに、それは幸ちゃんによく似合うと日頃から目を付けていたお気に入りの下駄。空色は幸ちゃんが大好き、故郷の話にはきまって青い空が何処までも澄み渡る風景が登場する、聞いている私もつい苫小牧の海に広がる空が目に浮かんだ。
 下駄は絵葉書のように色鮮やかな花柄の付いた華奢な木彫りの品だった。中央に太い切り込みの線が入り薄紅色した椿の花が一輪、細い枝には黄緑の葉が二枚慎ましく添えられている。柵に見立てた空色の花尾が両脇から椿の花をそっと囲んでいた。
 はじめてお店に入った時にこの空色の花尾が目に留まった。しかも椿の花は叔母が好んで部屋の片隅に生けていた思い出がある。この女性の故郷でも青い空が広がっているに違いなかった。夏祭りには浴衣と一緒にこの花尾の下駄を履くとよく似合うと想像し、彼女も幸ちゃんと同じでこの空色が“好み”と思うだけでも嬉しくなった。もちろん、彼女に譲っても幸ちゃんは何ひとつ文句を言わないことにも自信があった。
 「日本風でとってもお似合い、彼もさぞ喜ぶでしょうよ」老婆の声も弾んだ。ところが、「そうじゃなくて、田舎へ帰る時に履くのよ」彼女は何かを決心しているらしく、胸の裡を覗かせた。時々苛立ち怒っていたが、何処か自分を責めているようでもあり、老婆に甘えて何かを訴えている節もあった。しかしながら、幼い私にはその真意を理解することは出来なかった。「あなたにはこの下駄がぴったり」と再び奨めると、少し落ち着き「一緒に戴くわ」と吹っ切れた明るい声でその場が丸く収まった。
 「ところで、田舎に帰るの?」と老婆が何気ない振りして聞き直した。
 実はジミーが1ヶ月ほど前から帰らないの・・」不安そうな声が沈み、「演習に出掛けたきり便りもないのです」と大真面目、強がってばかりいる女性とも思えぬ発言だった。“ジミー”とは一緒に暮らしている米兵の名前らしいが、彼が演習から戻らないのは、行き先が違って本当は戦地かも知れない・・出掛ける時にジミーが彼女に嘘を付いたのだ!・・私の在らぬ想像が薄暗い店先で渦を巻いて勝手に走り出した。
 ふと、“ミッキー”(我が家の屋号)の常連の兵士であだ名を“クレイジー・ホース”(暴れ馬)と称する乱暴者を思い出した。傷だらけになった喧嘩の現場を街中で何度も見たことがある。オクラホマ部隊に所属する彼が軍服に付けている黄色い腕章の“馬印”にちなんで喧嘩相手が皮肉った“あだ名”を付けたと街中で評判になった。その宿敵が“パンチ・ボーイ”と称する名代の喧嘩好き、街中ではふたりともいつも酔っぱらい数人で群がっては日本人を痛め付けていた。ただし、何故か?私たち子供には親切で時には笑顔を見せた。私はパンチ・ボーイの顔をよく覚えている。丸い赤ら顔の真ん中にあぐらをかいた鼻と鋭い目付きが如何にも野性味が溢れ、感極まって袖を捲ると盛り上がった筋肉の厳つい両腕が剥き出しになり誰もが怖れた。しかも、右腕には薔薇の入れ墨が覗き、彼が“パチン”と指を鳴らせば喧嘩の合図と決まっていた。この二人がしばらく店に顔を出さなくなった頃、家人たちの間で「戦地に行ったきり、戻らない」と噂が飛んだ。それならばジミーも彼等と同じかも知れず、彼女もそのことを察しているみたいで心を痛めていた。
 二人はしばらく黙ったままだった。
 私も息が詰まる沈黙に耐えていた。正面のガラス窓に目を遣ると、張り付いた霜が真っ白い幾何学模様を描き、幾重にも重なって朝日に輝いている。様々な形をした絵柄の中にひときわ目立って鋭く伸びる細い線を見付けた。その線は窓を仕切るぶ厚い縁を乗り越えて屋根裏へよじ登ろうと蠢く青白い生きものにそっくり・・そう言えば去年の夏、支笏湖で雪ちゃんと一緒に見た“白い蛇”によく似ている。記憶が蘇った途端・・先刻以来、暗がりの中から聞こえて来る声の主は、もしや彼女ではないか?不安に満ちた疑惑が過ぎった。同時に、奥の暗闇から老婆に別れを告げる細い声と共にカツカツと靴音を従えた彼女が近づいて来た。背後を通り過ぎた一瞬、ガラス窓に映った相手はまさしく見覚えのある顔、思わず「雪ちゃん!」と叫んだ。
 玄関口で彼女が立ち止まり振り向くと目が合った。
 「あら!」と彼女が発するや否や私から目を反らし素早く顔をマフラーで覆った。強ばった仕草が私を拒んでいる。客を送りに出た老婆が怪訝な顔付きで私に近寄り「知り合いかね?」と囁いた。知らぬ振りを決め込んだ雪ちゃんを見て私も返答に困ってしまった。もちろん、彼女の目は外に反らした切りで老婆に応じる気配はなく、二人の間に冷たい風が吹き抜けた。お店に着き玄関先で客に気付いた時、直ぐ引き返せばよかった・・と後悔もした。だが、それは祭りの後、老婆には悪いが・・お互い知らない者同士の方が都合がいい、目が合った時から雪ちゃんも同様に考えているに違いない・・それが“暗黙の了解”・・そう思って私も黙り込むことに決めた。彼女も私も外者で米兵相手に暮らしている者同士、たとえだが、それは祭りの後、老婆には悪いが・・お互い知らない者同士の方が都合がいい、目が合った時から雪ちゃんも同様に考えているに違いない・・それが“暗黙の了解”・・そう思って私も黙り込むことに決めた。彼女も私も外者で米兵相手に暮らしている者同士、たとえ地元の老婆に内緒にすることがあっても何ら臆することはないと覚悟した。やがて雪ちゃんは静かに頭を下げて老婆に一礼すると何も言わずに店を出て行った。行く先は私が来た道と反対側の基地に近い方角だった。「あの子は、米兵と一緒に暮らしているようだ」老婆が彼女を見送りながら呟いた。想像も出来ない驚きの出逢い、一瞬、雪ちゃんに裏切られたと疑ったが、“そんなはずはない!”と直ぐに打ち消した。雪ちゃんは支笏湖の伝説に詳しく綺麗なこころの持ち主、もの静かで控え目な人柄、そんな彼女に何か誰にも想像できない複雑な事情が起こったに違いない・・次第に熱いものが込み上げて来た。私は“何も言うまい”と心に決めて老婆と向き合った。我が家“ミッキー”の商売や私の素性は母の知人から聞いているはず、老婆が彼女のことを詳しく知らないのであれば余計なことは言わない方が母や家人、雪ちゃんのためだと自分に言い聞かせた。必死で歯を食い縛ったが涙が止まらなかった。
 雪ちゃんだって私や幸ちゃんと同様にこの老婆を身内のように慕っている。私たち三人は“ひとりぽっち”と言う孤独に落ち込みながらも、老婆が奨めてくれた下駄のお陰でそれぞれの故郷を思い浮かべ、ひとつの線で結ばれた。あるいは、空色の花尾を通してしか故郷の空を思い浮かべることが出来なかったのかも知れない。それは同時に、クレジー・ホースやパンチ・ボーイと称する米兵と同じで“故郷は遙か遠く”という熱い望郷の念が含まれていた。やがて、女性の姿が角を曲がって見えなくなった。「あの若さで・・あの苦労を・・」老婆の独り言が私の胸を突き刺した。
  昨年の夏までは我が家で働き、母や家人と一緒に支笏湖で遊んだ雪ちゃん!湖畔で白い蛇と出逢い幸運が舞い込むと信じて田舎に帰ったはずの彼女がどうしてこの街で暮らしているのか!不思議というより腹立たしかった。彼女は“故郷に帰る”と幸ちゃんに嘘を付き我が家を去ったのか?それとも途中で幸運の白い蛇を見失ったのか?考えれば考えるほど悲しくてやり切れない。一緒に暮らしている米兵も雪ちゃんの元へ帰っていない様子、いったいどうなっているのか、まったく理由が解らず、頭が混乱して真っ白になった。
 「さあ、寒いから玄関を閉めて・・」と再び老婆に声を掛けられた。
 私は正気を取り戻し「おはよう御座います」とわざと元気な声を張り上げ直立不動で敬礼した。この後には懐かしくて温かい叔母の匂いがする“山羊の乳”が私を待っているはすであった。(つづく)