第14話 敦盛の残影

2013.08.05, 月曜の朝

日本人に潜む美意識

~2013.08.05(月)~

 今年ほど“待ち遠しい”と願う“春”はなかった。
 四月初旬のこと、まだ肌寒い空だったが春めいた気配に誘われ神社山の境内を訪れた。 
 すると、林の向こうの日だまりに萌葱色の芽が、ひとつ、ふたつと地面から顔を出しているのが目に留まった。近づいてよく見ると蕗の薹、果たして願いが届いたのか!幼い頃から通い慣れた千歳神社を祭るこの森が真っ先に春を告げてくれたと思うと何とはなしに嬉しかった。未だ冷気に覆われ残雪に埋もれた山野の奥で密かに息づくこの「萌葱色」は、大自然の中で目に見えぬほど小さな点でありながら燃えるような色を大地に刻み春を呼び寄せる力を漲らせている・・私はこの下向きな情熱を蓄えている植物の芽を森の精の化身に思えてならなかった。森の精がこの私に春を告げている!将に「萌葱色」は北海道の色だ!その場に立ち止まり騒ぐ心を押さえ切れず、まるで少年時代が蘇って来るようであった。他に人影は無く、私一人がこの恩恵に浴したのは幸運という他はない。
 しばらくの間、この鮮やかな春の訪れを眺めていると、神殿を囲む回廊の正面から和服姿の若いカップルが晴れやかな姿で現れた。男性は黒地の紋付に仙台平の袴、女性は髪を結い上げ萌葱色の訪問着に白い襟巻きを纏っている。ここにも春の足音、颯爽とした二人の出で立ちは暖かな日差しを受けて眩しく輝いている。ところが、意外なことにこのカップルには他に誰も連れが見当たらなかった。“何か?訳ありか・・”とつい好奇心から「漸く春ですね~」と声を掛けた。男性が遠慮がちに「昨年の今日、籍を入れたのですが“式”は済ませておらず本日揃ってお参りに来ました」と予想外に丁寧な答えが返って来た。自分たちの服装が余りに仰々しいので先に事情を打ち明けようと焦って先手を打って来たらしい。「そうでしたか、それはおめでとう御座います」と改めて挨拶すると、新婚さんは安心した様子でお互いに顔を見合わせ笑みを浮かべた。私の好奇心は治まらず「ところで、地元の人ですか?」と尋ねてみた。「いいえ、先日、転勤したばかりです」と、今度は少し手慣れた口調で歯切れがよかった。私はこの調子で若い新婚さんと話が出来る!と楽しくなった。
 千歳に転勤と言えば大方の職業は自衛官に決まっている、そつがない彼の返答からすると“余程優秀な航空隊員か?”と想像しながら「どちらの部隊?」と踏み込んだ。すると、傍で寄り添う女性が躊躇いながら夫に何やら目で合図を送った。それを見逃さなかった私に気が付いた彼女は恥ずかしそうに赤らめた顔を襟巻きに埋めると、同時に夫が苦笑いを見せた。妙に含みのある二人の態度から察すると、どうやら私の当てが外れたらしい。ともあれ、一年も過ぎたにもかかわらず結婚の報告を神殿に誓うとは、若い人には珍しく見上げたものだと感心していると、一瞬、女性と目が合った。再び声を掛けようとすると彼女は私を遮るように足早に通り過ぎようとした。その飾らない仕草が返って新妻に相応しく無垢な心の中を開け放しているように見え、私までが清々しい気分に打たれてしまった。そして、何故か懐かしい光景に出逢った気がした。慌てた夫が私に向き直り申し訳なさそうに頭を深く下げ黙礼すると急ぐ妻を引き留めた。今度は夫の方が妻を庇い立てしているので少し滑稽だったがほほえましくて羨ましかったが、余所余所しい女性の態度から察すると易々とこの街に慣れそうもない頑な性癖が読み取れた。妻の胸中を受け止めた男性もまた何処か控え目で律儀な人柄であった。それはよそ者の警戒心ではなく、地元の人間である私には一目置いて接しようとする丁寧な心配りに思え、その好意を素直に受けてそれ以上の会話を差し控えることにした。軽々しく声を掛けた私が失礼と言うもの、軽薄だったと少し気を咎めながら二人を見送った。
 この若き夫婦が他国に馴染めない素性から想像すると、彼等の生まれ育った土地は決して都会ではなく古い風習が残る地方の小さな街であろう。そう言えば、幼い頃に「他人には易々と声を掛けてはならない」と母に叱られたことを思い出した。母は明治四十三年、貧しい農家の生まれだが何かにつけて“他人ごとを第一”として明治人特有の凛とした気質を貫いた。如何なる場合も他人ごとを優先し自分は後回し、常に“他人に迷惑を掛けてはならぬ“と私や隣人を諫め、何よりも「清貧」をモットーにした。母の教えを思い起こすと、そこには時代を越えて日本人であれば誰もが心の隅に刻まれてある清楚で奥ゆかしい作法、即ち、相手への“思いやり”や“慈しみ”の心遣いが日常生活の中に溶け込んでいた。ことある毎に隣人の世話を惜しまず自分ごとのように振る舞う・・その様な古き時代の秩序と向き合って暮らしていた幼い私は、幾ら叱られても母の後ろ姿を誇らしく思い決して嫌いになることはなかった。後年、母の苦労は若い時から筋金入りであったと叔母たちから聞いたことがある。残雪が眩しい山野の片隅で真っ先に蕾を着ける蕗の薹、恭しく神殿に詣でる正装の夫婦、若くして律儀な夫、新妻の清楚で下向きな仕草、いずれも厳しい冬に絶えて芳しい春を告げる晴れ晴れとした出で立ちであり、萌葱色の風景は母の面影も宿っていたような気がしてならない。
 この敬虔なる萌葱色のイメージにあえて重ね合わせるつもりはないが、ここにもう一人、萌葱色の鎧に身を固めた若き武者が春の空に浮かんで見える。その人物こそは平家一門の大将平敦盛、「平家物語」に登場する彼の出で立ちは、その最期に相応しく美しい色彩を添えた衣装であった。

 ・・・ 爰に練貫に鶴縫うたる直垂に、萌葱匂の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒縮め、金作りの太刀を帯き、二十四差いたる截生の矢負い、滋藤の弓持ち、連銭蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗ったりける者一騎・・・薄化粧してカネ黒なり、・・年十六七ばかりなるが、容顔誠に美麗なり・・・・(原文のまま)

 平家の貴公子に相応しく寸分の隙もない勇々とした若武者振りは申し分なく讃美を贈りたい。だが、この晴れ晴れとした出で立ちの陰からいささかもの悲しい調べが聞こえて来るのは私ばかりではないであろう。年齢わずか十九歳にして須磨の波間に今将に散らんとする若き命の潔さと儚さには「哀れみ」の極地が潜んでおり、時代の潮流に巻き込まれた敗者の“憂い”がいつまでも付き纏って離さないのである。そして、この悲劇はほんの序章に過ぎない。颯爽たる敦盛の姿を見て、源氏の荒武者である熊谷次郎直実は馬上から猛然と名乗り出る。これを見た敦盛は憤然として「さては汝が為には好い敵ぞ。名乗らずとも首を取って人に問え、見知らうずるぞ」と怖じけることなく堂々と戦いを挑もうとする。敦盛の訴えは、あえて名乗らずとも即刻私の首を跳ねて誰かにご覧入れば自ずと高貴な身分は解る・・と言うのである。健気で潔い若武者の気負いともいうべき哀傷に満ちた姿である。しかれども直実もまたこれに勝ると劣らない勇猛果敢な老武将であった。自分の息子と同じ歳頃に見えるこの若武者をこの手に掛けることは忍び難く心情的に迷いが生じて躊躇する。しかし、味方の軍勢が背後に近づいていることを悟ると、自分の手で今討たねば他の手によって必ずや殺され、無惨な姿を晒すことになるだろうと自分を合点させ、断腸の思いで敦盛の首を跳ねてしまう。この凄まじい戦場での葛藤は、「滅びゆく者」への哀悼と慈しみ以外の何ものでもない、以後、直実は武士の身分を捨て法然上人の下で出家する。武士の巧妙を何ら惜しむことなく、むしろ自から高い身分をかなぐり捨て仏門に入ると一生敦盛の追善供養に身を投ずる。直実は勝者でありながら求道者に転じたこのアイロニーは人間の存在が必ずしも絶対的な価値に依存しないことを説いている。敦盛の最期(巻第九)は、平家物語の中でも最も哀調に満ちた悲愴的な一節だが、単に“無情”を説いているばかりではない。生死をかける戦場で敵と味方という立場の相違はあっても、互いに武士道を歩む誇りと人格を認め合い、相手の悲劇を自分の如く謙虚に受け止めようとする普遍的な同志愛(共通の死生観)を訴えている。将に、平家琵琶の調べが我々の胸を打つ所以はここに在る。「盛者必衰」の理に順ずる「諸行無常」の哲学であるには違いないが、その細部に触れると、人間同士が「よりよく生きる」ための心得(作法)について様々な合戦の場面で説き明かそうとしている点に留意すべきであろう。
 もうひとつ。
 栄華を極めた平家は源氏に滅ぼされ、その源氏も束の間に終焉を告げ、代わって北条執権が武家政権を成立させる。その政権も下克上の戦国時代を迎えるが、やがて徳川幕府が全国統一を図る。だが、これも約260年後には統治力衰退と外圧によって藩政時代(約300余藩)に終わりを告げ、開国と共に幕府は瓦解し明治維新となる。この間、僅か約10世紀の出来事に過ぎない。その後、中央集権国家(近代化)へと時代は移り変るが、明治新政府は武闘派を誇る薩長の藩閥政治から容易に脱することが出来ないまま明治二十七年に日清戦争が勃発。余談になるが、徳川幕府の重鎮であり明治政府にも関与した勝海舟は、その晩年に於いて「明治より江戸の方が庶民は幸せだったかも知れない」と言う意味の言葉を残したと聞いた。廃藩置県や地租改正によって地方自治のあり方が藩政時代よりも更に過酷になったということであろうか・・・少なくとも明治政府が必要とした莫大な戦費と人材はその後の地方財政を大きく揺るがす“苦難の道”が待っていると、海舟が既に予期していたように思える。その後“富国強兵”の中で揺れ動く軍事拡張路線は、やがて日露戦争(明治三十六年)を誘発し、その後世界経済不況に煽られ第一次世界大戦(大正5)へと巻き込まれる。昭和期を迎えて満州事変~日中戦争を経て大平洋戦争が漸く終結するのは昭和二十年八月。こうして近代日本は強権な軍国主義の下で「戦争の歴史」を重ねた。ここで忘れてはならないことは、その莫大な戦費と貴重な人材は広く全国各地(江戸時代の藩政で培った地方力)より調達したままで敗戦を迎えたと言うことである。勿論、これに伴い地方コミュニティーや秩序も崩壊した。“封建時代の古い風習だ”と言って切り捨てられたものもある。現在も地方が奮わない主な原因はこの「”戦争の歴史」にあると言わねばならない。一方、終戦後今日に至るまで七十余年が過ぎても相変わらず中央政治による東京一局集中型社会の経済偏重から脱することなく、有限資源の消費を基盤とした物質文明の繁栄を築いて来た。しかしながら、東北大震災など昨今の出来事を見るとこの脆弱な繁栄がいつまで続くか何所にも確証はない。
 それにしても、この美しい自然と豊かな歴史を有し暖かい人間の情愛に溢れるこの国の未来は、原子力エネルギーなどに代表されるが如く一時の政治力や経済政策、あるいは一部の独占企業の既得権益によって易々と失ってはならない。殊に原子力発電所の扱い方は単なる政治力や経済問題ではなく、子々孫々に至る民族の存亡に関わる「生命」そのものの保全と維持と言う基本テーマの下で「日本人の文明」のあり方が問われていることをもっと深刻に受け止めるべきである。この点は、昨今、原子炉の全廃止を決定したドイツ民族の記事を見て、彼等の思想や文化を改めて謙虚に学ぶべきだ!と、つくづく考えさせられた。(平成25年7月19日、北海道新聞朝刊記事、6P、独の脱原発 地方が主役、ベルリンで、志子田徹)。こうした国際動向を参考に、我が国は早急に新しい「地方の時代」を築かねばならない時局にあり、ますます「道州制」の施行が急がれる。(終)