第5話 少年時代(四)

2012.06.18, 月曜の朝

~2012.6.18(月)~

 少年の心は目に見えない何者かの大きな力に引き上げられ宙に浮ぶ気分に酔っていた。
 相変わらず米兵は覚束ない足どりで追い掛けて来たので私は作戦通り逃げの一手で押し通し相手が疲れるのを待っていた。ところが、敵が酔っていると知ってつい気が緩み橋の上で見掛けた通行人に気を取られて小石につまずき転んでしまった。もちろん、米兵は少年の油断を許すはずがなく、素早く追い着いて来るとまるで岩壁の尖端に私を吊すみたいに襟元を摘み上げた。有無も言わさず、私の身体を軽々と持ち上げてフフフ・・と薄気味悪く含み笑いを浮かべると目を怪しく細めて鋭く睨んだ。
 “小僧・・これからが勝負だ!”と言わんばかりに不気味な視線で“脅し”を掛けて来る。目と目が合うと米兵の優勢は明らかだった。もとはと言えば、腕力も眼力も敵の方が数段上であることは承知の上、所詮は負けを覚悟しての一騎打ち。宙吊りになった身体を繰り返し左右にひねっては両足をドタバタさせ、何とか米兵のビール腹に一撃を報いたい!と抵抗を重ねた。だが、襟元を深くグイっと握られては獲物狩りの罠に掛かったも同然、空回りする身体ではどうにもこうにも力が入らず返す技もないまま無重力の中で空しく藻掻くばかりだった。
 とは言え、米兵が時々そわそわと落ち着かない視線で通行人に気を奪われる訳は“己の悪事”に後ろめたさを感じてのこと。この小さな乱暴者を“見せしめの如く”空に向けて高く吊し上げてみたものの果たしてどのように裁くか?戸惑う様子はさすがに隠し通せるものではなかった。もみ合っているうちに勢い余って米兵の手が襟元から離れた。身体が帽子と別々になって空に舞い上がり、私はたちどころに地面に叩き付けられた。同時に空振りした米兵の右肘が素肌になった坊主頭に飛んで来た。
 突然、肘鉄を喰らったみたいで目が眩んで思わず額に手を当てると粘ついた血が指先を赤く染め大きな瘤と傷口が焼けるようにピリピリと痛み出した。“やったな!”と苦々しく目を剥くと、相手の盛り上がった腕にはあの青い龍が顎を突き出し髭を靡かせて今にも私を絞め殺そうと長くて太い胴体をくねらせている。幾重にもギザギザと尖ったその歯で噛み砕くつもりかも知れなかった。
 そら恐ろしいやら瘤が痛むやらでガタガタと足が震え出し、ついに半べそをかき鼻水が止まらなくなった。グスグスする鼻水を袖で拭ったその時、目に飛び込んできた「尖った歯」に思わず心が踊った。もしも前歯で「噛み付く」ことが出来れば、まだ勝てるチャンスが残っていると思ったからだ。私には“刃物の切れ味”と自慢出来る登山ナイフみたいな前歯が2本、しかも下顎は人一倍頑丈との自信がある・・固いセンベイやあめ玉などはひとかじりで粉々にしてしまうほどの剛力・・これに気が付き恰好の標的が頭に浮かんだ。それは正しく恐ろしい“龍が暴れる腕”、龍を噛み殺せば必ずや米兵に勝てる、直ぐにでも逆転劇がはじまる!こうして強烈な肘鉄が返って自分を奮い立たせる結果となった。
 “逆転勝ち”を取りに行く作戦は「噛み付き」戦法。この作戦のリスクは顎が外れることを怖れないこと。目一杯に口を開けて歯を食い縛る!もちろん、前歯の一本や二本折れるのは覚悟の上、下顎一点に力を絞り込み龍の眼を狙って噛み砕くことだった。厳しい自己犠牲を強いられるが勇気と根性さえあれば必ずや成功出来ると考え、最後にもうひとつ得意の奇襲戦法が残っていたと地獄で助け船に出逢った心持ちだった。一度、喰らい付くと相手がどうなろうと決して緩めない・・ここが肝心要の踏ん張りどころ。だが、荒れ狂う龍と五分と五分とで渡り合う為には自分も獰猛な野獣に変身しなければならない。岩をも噛み砕く強固な力を持つ顎と風をも切れるカミソリみたいな鋭い犬歯、例えば猛虎の如き血に飢えた牙が武器になると思えた。鋭い牙こそがすべてを破壊し最後の決定打を放って勝利へと導く、その為には自分自ら虎になって龍の肉片にかぶり付く・・心の中でそう決めた。いざ、勝負!私は屏風絵に登場する牙を剥き天を睨む“月に吠える虎”を脳裏に描いた。
 この時、再び狂ったように青龍がブ~ンと音を立てて頭上をかすめた。私は反射的に軍艦頭を持ち上げ両手を高くかざし天空に向かって「ウオー」と雄叫びを上げた。2本の前歯が虎の牙にのりうつった!と思えたこの一瞬、研ぎ澄ましたこの刃が龍の眼をザックと突き刺した。ものの見事に猛虎が暴れ捲る青龍に噛み付いた瞬間、眼にも留まらぬ早業だった。米兵がのたうち廻っている間に少年は頭のてっぺんから爪先まで十分な手応に満たされ武者震いに駆られながらむくむくと野生の力が滾るのを憶えていた。私は本物の虎になってしまったのだ。
 「参ったか!」と虎がギョロリと横目で睨み付けると、傷着いた龍が充血した目をかっと見開き苦渋に絶えながら全身をくねらせ私の首に巻き付いて来た。ごくん・・と虎の喉が鳴った。もちろん、龍の狙いは虎の首をねじ曲げ呼吸を断った後に骨を砕きすべてを呑み込もうとしている。「負けるもんか!」風雲告げる川べりで龍虎相打つ決闘は、真っ向からねじり合い噛み合う凄惨な一戦へと動いた。猛虎はその厳つい額を青龍の脇腹に押し当てて蛮勇を奮った。騒然と巻き上がる竜巻をもろともせず、負けじ!と血の滴る牙で赤く腫れ上がった龍の目玉を喰い千切る。たまらず米兵がギャ!と凄まじいわめき声を放つと形振り構わず私を上下左右に振り回した。互いに目が眩むような激しい応酬が続く中、この先どうなることかと自分でも恐ろしかったが猛虎はどこまでもしぶとく一時も顎の力を緩めることはなかった。
 「シブトイ!コゾウダ!!」米兵は顔を歪めてたどたどしい日本語を吐き捨てた。そして小脇に抱えた私の頭をねじ伏せようと満身の力を込めて「う~」と唸った。「首が折れるぞ!」と怒鳴りたくとも声にならず、それどころか米兵は左手を廻しその握力で私の顔を押し潰そうとした。それでも少年は米兵の脇腹にがっちりと喰い下がり微塵も動かない。誰でも喰い殺すその牙は少年の分身に他ならず、自分でもぞっとするぐらい残酷な光景が眼に映った。米兵の白い腕から真っ赤な血がぬるぬると幾筋も垂れ、私を振り払おうとする度に深紅の飛沫が容赦なく軍服に飛び散った。巨漢は赤鬼の如く険しい顔付きで痛みに耐え身体を硬直させて反撃を狙っている。その証拠には酔いから覚めて正気に戻った眼がランランと輝きを増し、「ゴー、ゴー」と短く発する不気味な言葉がある瞬間から恐怖を越えて殺気に変わったのだ。とうとう抜き差しならぬ“決闘”、二人のどちらかが大怪我を負う大惨事になりかねない戦況となった。この先、私には逃げ場もなければ次の手も浮かばない。それでも龍虎の戦いは凄まじい終局へともつれ込んで行った。
 青龍は猛虎を振り払おうと最後の力を振り絞った。素早く顔を空に向けて身体を大きくひねると鋭いその爪で思いっ切り相手の顔面を掻きむしった。「ウオー!」と虎が絶叫すると、一瞬、肉にめり込んだ牙がバリッと音を立てた。火の玉の如く燃え盛る殺気を背に岩をも砕く爪と樹木を薙ぎ倒す竜巻に潰され、虎は追い詰めた龍をもう一歩のところで仕留め損ねてしまった。眼を伏せ項垂れると開いたまま固まって動かない顎からスッーと力が抜けるともろくも折れた牙が浅瀬に落ち鮮やかな白色の石と化した。
 この様子を見た龍はたちどころに虎を払い除けて飛び立ち社の森の遙か遠くへと逃げ去った。米兵の右腕が漸く私から離れた一瞬、白昼に晒された戦いはここで終わりを告げた。川岸のいたるところに葦の葉が薙ぎ倒され、川べりのぬかるみには二人の乱れた足跡が点々と残り、この決闘が決して“まぼろし”ではなかったことを物語っていた。
 向かい合った二人は互いにへとへとに疲れていた。私は額の瘤と傷の痛みに堪えながら歯茎から垂れ落ちるどす黒い血をそっと袖口で拭った。汚れてしまった白い運動靴に気を奪われると、冷たい風が葦の葉を揺らして川面を渡り向こう岸に浮かんで見えるお社の森へと吸い込まれて行った。奥にはエンレイソウが群生する不思議な空間があり、残雪のような純白の花びらを想像すると、ふと、不吉な予感が脳裏を過ぎった。途端に米兵の右手が私の胸元にむんずと襲い掛かって来た。
 まさか!と思った瞬間、私は追い払われる蚊のように、実にたわいなく空中へと投げ飛ばされた。米兵が正気に戻った時から狙っていた一撃、反撃を許さない最後の切り札だった。私は危うく溺れそうになったが、近間が浅瀬だったので気を取り戻しかろうじて岸辺に這い上がることが出来た。どうやら最初から川の深みに投げ込こむことを狙っていたらしく、執拗に私を両手で抱えようとした理由も正しくこの荒技を企んでのことだった。
 酔った米兵が人目を避けて短期決戦へと誘導し相手に勝つためには、この戦法こそ成功率が高く川岸の地形に相応しいと考えたに違いなかった。岸辺に立ち急流の波立つ様子をじっと見詰めていると流されて行く水鳥の姿が目に入った。川底に投げられてはじめて米兵の本意を掴んだ。しかし、私は水鳥のように泳ぎは上手ではない。今、明らかになった相手の切り札を向こうに回して勝てる自信はまったくない。力尽きた私は覚悟を決めてその攻撃を待つより他に打つ手はなかった。(つづく)