第3話 情報化社会の夜明け

2012.01.09, 月曜の朝

~2012.1.1(日)~

~東洲斎写楽の周辺を探る~


 近年、パソコンと通信技術の飛躍的な発達により職場環境や生活様式が画期的に変わった。かつて、個人ではなかなか入手し難い情報も容易に得ることができるし、各企業間はもとより企業対個人、個人対個人に至るまで、しかも国際通信網によって海外情報にも手が届くに至った。操作も至極く簡単で尚かつ入手出来る情報は多種多様で扱う量も膨大である。
殊に、街に溢れる商品については”もの”と“情報”とが多様に結び付くことで消費者の選択肢は無限に広がっている。
 こうした制度の高い情報の収集と蓄積、加工そして多目的に配信出来るIT技術は、宗教や社会思想と同等に肩を並べて大きな社会変革をもたらした事を証明している。まさに近年の“国際化”がもたらした技術革新の成果で、この果実により情報化社会が全世界を覆っている。然らば我が国に於ける“情報化時代の夜明け”は如何なる社会的背景によってはじまったのか?・・このことは江戸時代・町人文化へ遡る事でその全貌が見えて来る。

(一)町人が情報操作の担い手となる

 一部の商人が実利的な経済力を握った江戸時代、彼らは巧みに情報を操作し洗練された仕組みの中で取り扱うようになった。それまでは厳しい身分制度に追い遣られて来た下層階級の町人達であったが、金銭力にものを言わせ“自由奔放な精神”を謳歌するべく歴史の表舞台に颯爽と登場する。
貨幣経済が大衆エネルギーを生み出し、この勢いに乗じて旧来の封建制(規制と因習)を打破しようと狂気の如く反骨精神が爆発する。一般庶民に光が射した一瞬であり、巷では多種多彩な情報を盛り込む芸術作品が溢れ出す。
例えば詩歌では上級社会の知的遊技とする和歌が後退し俳諧・連歌新風を巻き起し能や狂言に代わり歌舞伎が繁栄する。絵画では伝統的な狩野派や文人画はさびれて町人趣向をふんだんに取り入れた浮世絵が隆盛をきわめる。新たに散文として勃興した浮世草子や洒落本・黄表紙等は市井で起こった様々な情事・事件を源泉とした。
これら町人文化に共通するものは彼らの生活こそが初源的な“生命力”のみなぎる嘘偽りのない現世であると主張した点にある。
 川上の武士に代わり川下の町人が新時代の旗手となった背景には、彼ら自らの手で「情報操作」の仕組みを商業や芸術、生活を通して築き上げた点にある。創作者は身辺で発生した様々な事件から情報を入手すると自らの心情と主義を素にして臆面なく作品に仕上げて行く。
同時に武士中心の社会制度の矛盾を暴き、合理性を尊ぶ社会観と人間観をあまねく鼓舞し強烈なタッチで堂々と政治を批判し風刺した。禁じられた“喜怒哀楽”こそが人間誰もが共有できる性癖であると断じ“人間解放”を求める芸術ジャンルが続々と登場する。
 こうした世相に中、市井で発生する情報の分析と編集及び商品化と販売力を一手に握ったのが“版元”である。作家や刷り師、販売など意図的に仕組くまれた一連の創作活動の中心的役割を果たした。現代風に言えば将にインキュベータ的存在である。
版元は世情の評判を素早く捉えると次の作品を作者に注文し次から次へと作品を生み出し見事なタイミングで市場を賑わせる。まさに情報化社会の先駆者であった。
江戸時代(初期)に登場する江戸の俳諧師芭蕉、上方の戯作者井原西鶴、更には中期に活躍する浮世絵師・東洲斎写楽に至っては、市井情報の扱い方が益々巧妙になって行く。

(二)東州齊写楽の残影

 写楽は(生没年月不詳)、一七九四年(寛政六年)五月、彗星の如く画壇に現れ百四十余点の版画を世に出すと僅か十か月後に忽然と消え去った。この正体不明の絵師には①能役者斉藤十郎兵衛説②山東京伝、十辺舎一九、蔦屋重三郎等、戯作者や文化人の仮名、変名説③無名の特定人説、その他歌舞伎役者等、諸説が有るが今もその生涯は謎に包まれたままである。“謎解き”は研究家に任せることにしてここでは当時の社会情勢に応じた彼の作品ついて私なりに分析を試みたい。
 十八世紀後半、彼が活躍した頃の江戸市中の人口は幕府開設二百年を経ておおよそ130万人に達したと想定される。パリやロンドンを上回る大都市に発展しており、それまでに移入された上方文化は既に定着し購買力溢れた町人文化が繁栄を極めていた。
江戸歌舞伎は全盛期を迎えて時事を風刺した芝居の上演、人気役者や名場面を描く浮世絵と美人画が大流行、トピックスやスキャンダルの中からこれらの作品が生まれる。
店先に並ぶとたちまち噂が噂を呼び爆発的な話題を巻き起こしては更に庶民の好奇心を煽り立てた。この新興勢力が幕政にとって如何に煩わしいものであったかは「寛政の改革」によって解る。言論はじめ出版業界への厳しい統制により政治風刺や風俗を乱す刊行物は固く禁じ、山東京伝や蔦屋重三郎等多くの文人達は厳重な処罰を受け、中には筆を折り店を閉じる者も出た。こうした深刻な緊張感が高まる時世の中、まるで突き破るかの勢いで東州齊写楽が登場、全身に蓄積したエネルギーを一気に爆発させ、それが怪しく燃え且つ鮮烈な輝きをもってステリックな形相を露わにデビューする。
 初期の作品、役者大首絵に共通する奇々怪々なデフォルメには複雑で陰惨な世相を余所に強烈な自己顕示力を示す強い意図を感じさせる。どれもが頑固で意固地にも見える似顔絵、だが、ひとつひとつ丁寧に観測すると何処かに倦怠感が漂う。当時、形骸化した美人画やブロマイド化した役者絵に対して真っ向から反発する写楽の姿勢が赤裸々である。そこで、大首絵について興味ある点を幾つか探ってみたい。

 当時、一般的に売られた役者絵は人気絶調のスターを描くのが通例、だが、写楽の作品は無名な役者達を対象とした。単に飾り立てる既存の美意識には一切眼をくれず(一般庶民の間で流通する情報に依存しない)、日陰に埋もれている“役者の真実”を抉り出そうとする(特殊な情報に光を当てる)写楽の鋭い眼があった様に思える。観客の興味を引くに過ぎない通り一遍当の筋書きや名場面は一切画面から除外している点は、既存の概念にこだわらない写楽の独創性であろう。画面一杯にクローズアップされた似顔はどれもが異様な顔付きをしているがポーズは極めてシンプルでえある。いずれも横顔を描くに徹してしかも上半身に限定している・・この構図も他に例がない。柿や林檎の種のような形をした左右不揃いな眼、焦点の定まらない視線は如何にも不安や陶酔といった人間の内面を浮き立たせている。
中央で異常に大きく盛り上がった鼻や顎が引き裂けるばかりに一文字に引かれた口元、沈黙を守り続ける固く閉じた唇、これらは明らかに本人自身が懊悩して止まない反骨精神の現れであろう。懐から突き出しバランスを崩した両手の造形、大げさに反り返った掌と奇妙に捻じ曲げた指の握り具合、こうしたちぐはぐだらけの構図は本来人間が有する生体を故意に折り曲げており、あえて現存そのままの姿を写生しない意図は、これでもか!これでもか!と人間の内面に迫る作者の叫び声に受け取れる。こうして不自然な誇張が画面一杯にはびこる表現は不健康で異常な歪みを連想させ、同時に陰鬱で無秩序な人間社会を映し出すデカダンスそのものである。
 更に画面の緊張を高じさせる手法について、余分な筆を入れる空間を一切排除し浮世絵独特の華美で複雑な画面構成を徹底的に否定している点は単なる写実主義ではない。
自由な商業主義が次第に幅を効かせて行く世相を睨み、その中で生じる時代の「影」に着目した鋭い感性が息づいていると言える。複雑化する人間心理に光を当てようとした写楽の意図が容易に推察できるのである。
 役者とは「虚」と「実」の狭間を往復し厳しい規制に耐えて限界ぎりぎりまで演技を続ける職業である。ニューファッションとスキャンダルの渦の中を泳ぎながら人気次第では自分の人生も破滅しかねないと言った因果な商売・・写楽はここを見逃さなかった。
だが、この特殊な職業を持つ人間の苦悩を怪奇な似顔絵をもって描いたものの、実は苦渋に耐え人間不信に陥っているのは自分自身であることも同時に気付いた。
単純な構図と色彩がかえって複雑で深刻な人間模様を浮き彫りにする。
別の解釈を加えれば、絵に隠れた様々な情報は実は観衆の持っている情報と一致しており、絵の主人公と同様に観衆もまた同様に苦悩を抱いた人間であることを写楽が傍で囁く・・奇才写楽の情報処理能力の優れた点である。
 後年「浮世絵類考」に写楽を評して「歌舞伎役者の似顔絵をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬ様にかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む」との記述がある。
流行と虚像を追い求める庶民は何処か役者と似た所があり、内心深刻に震えている観衆を赤裸々に炙り出す結果となった。
確かに大首絵は「商品」として売れなかったであろう・・・だが、むしろ町人の形骸化した美意識が写楽の迫真性を剥き出すリアリズムに着いて行けなかった・・と私は見たい。

(三)浮世絵に見る情報操作の変遷

 「情報操作」の面では、写楽の立役者、版元の蔦屋重三郎の影響は大きい。
彼は写楽のパートナ的存在であると共に情報の収集・加工・提供を一手に押さえる仕組みを創った先駆者でもあった。このパートナーは、もしかすると写楽(スペシャリスト)の画家生命を奪ったとも考えられる。重三郎の「情報」への感性は写楽を遠く越えていたとも想像出来、このことが二人の仲を引き裂く原因のひとつになったのかも知れない。
 重三郎は大勢の知識人とサロンを主催していた。この人脈(情報)の広がりの中で写楽の限界を感じていたとも考えられる。脳裏に「如何も天下のお江戸」と言えども限られた空間(地域)に過ぎず、所詮は狭い情報の坩堝だと思っていたに違いない。即ち、如何に写楽の才能を駆使してもこの枠の中に依存する限り斬新な作品は望めなく、サロン内の情報と絵師とのやり取りだけでは、もはや新たなジャンルの発掘は限界があると考えていた。成熟した江戸圏内の文化を軸に新鮮な外部情報(域外)を取り込むモチーフを探したに違いなかった。
この後、「狂言絵本」を出発点に洋風を強調し風景画の試作品を発表した頃から写楽に替わって葛飾北斎の活躍がはじまる。北斎もまた重三郎が発掘した浮世絵師の一人であった。
 寛政九年(一七九七)五月に蔦屋重三郎は四十八歳で没するが、その二年後、北斎は「東都名所一覧」を刊行、本格的に人物の背景に自然描写を配置した。
続いて文化年間(一八0四~一八四九)に「東海道五十三次」の宿駅図シリーズを出版、これ等が浮世絵風景画の出発点となる。この絵に盛り込まれた情報は江戸に止まらず各地域の特徴を生かした風情豊かなものばかり。
それまでの江戸情緒とは異なり自然と人間の調和を描き、庶民の生活情報を余すところなく取り入れた軽快な筆致である。特に江戸時代、富士山は霊山信仰に於いて霊験あらたかをもって誰れからも愛される山になる。普遍化した富士山を中心に江戸周辺や東海地方の様々な地域情報が画面一杯に掲載される。
天保三年(一八三二)「富獄三十六景」の出版に至っては、北斎独特の知性による造形美が確立され役者絵や美人画を凌ぐ独特な画風が一世を風靡する。後世の風景画シリーズは全てここが原点である。
「シリーズ」とは、将に情報連鎖を指し新しいネットワークの形成をもたらした。この時期から絵画が有する情報領域が一段と増幅したことは間違いない。
やがて、東海道を旅する安藤広重により道中画シリーズ「東海道五十三次」(天保三年)が誕生する。こうして浮世絵風景画は、新たなジャンルとして一挙に全国規模に於ける「情報」の広がりを見せるに至った。
写楽と重三郎(もしかすると、この二人は同一人物であったかも知れないが)の別離が何を意味するか?「江戸期の情報化社会」に焦点を合わせると朧気ながらに見えて来た思いがする。写楽は急激に進む情報化社会の中でその役割を半ばにして消えざるを得なかったアウトサイダーであったのかも知れない。一年に満たない僅かな画家生命は謎に包まれてはいるが、そのことが返って私達に多くのことを物語っている。
誰よりも時代を先取りした重三郎をパートナーとし情報前線で激しい凌ぎ合いを演じた新進気鋭の作家であった。

 江戸時代から約400年経過した現代、私達は地球規模の情報ネットワークに覆われている。こうした現実と過去の史実を重ねると、勿論スケールの規模は異なるが「情報連鎖」が紛れもなく社会変革を招くことに気着き、更に新しい技術によって旧来とは全く異質な価値が新たに創出されることは容易に理解できる。
 昨年、我が国は東北大地震に見舞われ天災と人災が同時に勃発した。殊に原発事故は子々孫々にまで深刻な陰を落とす戦後最大の国難と言える。
また、海外では相変わらずテロが横行し国際経済面ではリーマンショック勃発後の傷も未だ癒えない状況下にもかかわらず今回はギリシャを発端に欧州危機が発生しユーロの崩壊が囁かれている。かつて共産主義の崩壊と共に資本主義にも陰りが出てきた。今や、自由主義や科学万能主義といった人間中心の世界観から解脱することを前提に、新しい価値感による自然観や「共存共栄」に基づく国家思想の出現が待たれる。
この点、新時代に向けての「情報連鎖」が果たす役割は大きいと思われて仕方ない。