「月曜の朝」のこと

2011.11.04, 月曜の朝

 会社を設立して8年目、業績が伸びはじめ私なりに手応えを感じた頃のことである。
 社内の壁に「月曜の朝」と愛称をつけて伝言板を設けた。常に一週間のはじまりの如く忙しくても清々しい気分でありたいと自分に言い聞かせ、“気を引き締めて行く”ことを念じて思い付いたのがこの愛称であった。毎回、原稿を書きながら少年時代「たけの子新聞」と題して壁新聞を作った記憶が蘇って来た。その時と少しも気分は変わらなかった。会社での伝言版は“コミニケーションコーナ”と呼ばれる空間の壁、社員が仕事の合間をみて気軽に集まれる場所であった。今も掲載記事が当時のまま残っている。

 ~1991年4月17日(水)晴れ、
 皆様へ このコーナを畑さんに作って頂いた理由。
 (1)今年度からより多く職場の仲間が増えました。
 (2)同時に広く諸処の分野の仕事も増え、皆さんは毎日が忙しくなりつつあります。
 (3)私にとっても(株)酵生舎、(社)HIT、(財)秋山財団、(株)秋山愛生舘、
    各種研究会への参加等々多忙な日々になりそうです。そんな職場の中で、
    何事でもよいから、仕事以外のことで皆様とこころの繋がりを持ちたいと思いました。
    とりあえず私の胸の中に在る思いのホンの一部を伝えたいと思います~

 あれから約20余年が過ぎた。
 この間、バブル経済が弾けると同時に弊社と同様に高度経済成長期にソフトウェア会社を設立した仲間が幾人も何処かに消えた。道内最大手金融機関である北海道拓殖銀行の破綻は道内経済に大きな爪痕を残した。設立時から大変お世話になった(株)秋山愛生舘やバイオ技術開発を目指した 弊社関連会社(株)酵生舎は既に現存しない。また、弊社としても初代社長志摩良一氏(平成9年)、2代目監査役間瀬一郎氏(平成11年)が後を追うようにして亡くなり、私個人としても平成7年10月母が逝き、翌平成8年2月には大恩人である秋山喜代会長を失った。前後して我が本社は毎日会館から現在のAKKビルに移転した。
 わずか20余年の歳月とは言うものの、波瀾万丈とでも言いたいぐらい激変に見舞われた時代であった。そして、私の周辺もさることながら世界が大きく変わった。国際経済同時不況下で日本の政治・経済は混迷の中から活路を見出せないまま今日を迎えている。
 しかしながら、長期に渡る厳しい社会環境にもめげず、我々は営業活動や技術習得に努力を重ね業績を少しずつ伸ばすことが出来た。昨今、札幌圏ばかりでなく東京や横浜市の仕事にも取り組んでいる。幾度も窮地に立たされながらも、その都度、したたかに、そしてしぶとく乗り越えて来た。そこには職場の上司や同僚、仲間との会話(本音)を通しての相互理解、あるいは得意先からの厳しくも暖かい支援があったからこそ・・・である。時々、落ち込み、ひるむ私を“それ!!”と言わんばかりに号令を掛け、後ろから背中を押してくれた人々の顔が今も脳裏に焼き付いている。日頃より私のグチを聞いてくれ、そうかと思えば手放しで喜ぶ勝手な振る舞いに付き合ってくれたこの隣人たちのことを決して忘れることはない。
 これからも時代は変わるであろう。
 人口減少や高齢化・少子化を考えるとこれまで以上に過酷な社会制度や劣悪な経済状況に急変するかも知れない。国内購買力を失った我が国経済は海外に活路を見出す他に術はなく、異民族との共生や異文化交流という大儀の下で貿易自由化、国際金融政策、海外移転、外国人雇用など、幾多の違和感を伴う対処策に応ずることを余儀なくされるであろう。正に異民族と価値観を共有すべくグローバル社会に日本は晒される。果たして、素直で誠実、働き者である日本人気質がこのままの姿で通用するであろうか・・?
 そうであれば尚更のこと、日本人としての自覚を持ち、如何なる相手でもその本音を看破する術を会得しなければならない。加えて、しっかりとした自分の主張を貫く気概を持たなくてはならない。少しでも自分たちの日本文化や日本語を学び大切にすることで国際人として通用することが望まれよう。但し、私の意図する「月曜の朝」は、左様大げさな主旨を有するのではなく、例え相手が日本人であろうと外国人であろうと、何ら構えることなく自らが会話を求める流暢な術と話題性を会得したが為である。鍛錬する場として、社内だけでなく社外にも開かれたコーナを改めて設営したいと思ったまでのこと。
 「月曜の朝」は、その後1994年10月4日(金)、晴れ、第102話「自分たちの足音聞け!」まで続いた。途切れた理由については、今となっては記憶が定かでないが、翌平成7年7月住み慣れた毎日会館を後に現在のAKKビルに移転したことを思い合わせると、準備のための時間に追われたのであろう。以上。